仕事中に、机の上のスマートフォンに母の名前が出ることがある。
数か月に一度のことだ。そのたびに、会議中でも席を外して電話に出ている。
出てみると、用件はたいてい急ぎではない。よく分からない郵便が届いた、知らない番号から電話があった。そういう話がほとんどである。
急ぎでなければ夕方にかけてほしい、と母に頼んだこともある。それでも、昼間の電話は変わらなかった。
急ぎではないと分かっていて、なぜ毎回出るのか。この記事では、その理由と、仕事中に電話へ出られない人が親の側に何を用意しておけるかを書いておく。
母から勤務中に電話が来るのは、数か月に一度だ
母との電話は、ふだんは私の仕事が終わってからになる。
母が退院して一人暮らしに戻ったころ、仕事終わりに毎晩電話することにした。今は週に数回に落ち着いている。電話の声や話しぶりで母の変化を見るのも、その時間帯の電話だ。
だから、昼間に母の名前が出ることは少ない。数か月に一度あるかどうかである。
少ないからこそ、表示を見た瞬間に身構える。倒れたのか、具合が悪くなったのか。最初に浮かぶのはそちらだ。
実際に、そういう電話が一度あった。母が急に入院した日も、始まりは出勤してまもない時間の母からの着信だった。その日、仕事をどう休んだかは別の記事に書いたが、あの電話以来、勤務中の着信を軽く見ることはできなくなった。
出てみると、用件はたいてい郵便か電話のことだった

数か月に一度の着信のうち、本当に急ぎだったのはあの入院の日くらいだ。
多いのは、郵便の話である。請求書のようなものが届いた。差出人がよく分からない封筒が来た。開けていいのか、払うものなのか、母には判断がつかない。
困るのは、電話で説明を聞いても、私にも中身が分からないことだ。母が読み上げる差出人や文面だけでは、何の書類なのか見当がつかない。結局気になって、なるべく早く実家へ見に行くことになる。
行って封筒を開けてみると、たいていはどうでもいい内容である。
こういうとき、母がスマートフォンのカメラを使えればと、つくづく思う。封筒を一枚撮って送ってもらえれば、その場で分かることがほとんどだ。ただ、母はメールもLINEも使えない。写真を送るのは、母には遠い操作である。
郵便も電話も、昔より紛らわしいものが増えた。差出人の名前だけでは中身が分からない封筒もある。私でも、開けてみないと分からないことがある。母が迷うのも無理はないと思う。
もう一つは、電話の話だ。知らない番号からかかってきた。何かの勧誘のようだった。
勧誘の電話は断るように、前から言ってある。迷ったら返事をせずに息子に相談する、とも伝えてある。母が詐欺まがいの電話を受けて「どうする?」と聞いてきたときに、改めて言い足したことだ。昼間にかかってくる電話の何本かは、その約束どおりの相談である。こちらは、その日のうちに私が動かなければならない話ではないことが多い。
用件を聞いて、ほっとする。同時に、少し虚しさも残る。会議を抜けて身構えて出た電話が、また急ぎではなかった。数か月に一度、その繰り返しである。
「急ぎ以外は夕方に」は、母には伝わりにくかった

一度、母に頼んだことがある。急ぎでなければ、仕事が終わる夕方以降にかけてほしい、と。
母はそのときは分かったと言った。それでも、昼間の電話は変わらなかった。
そのままでいいとは思っていない。ただ、これ以上説明を重ねて分かってもらうのは難しいと考えて、頼み直すのはやめた。
いちばん大きいのは、会社員がどういう環境で働いているかが、母には分からないことだと思う。
会議の最中に電話が鳴るとどうなるのか。席を外すとき、周りにどう見えるのか。母はそういう場に身を置いたことがない。知らない環境のことを、言葉だけで思い浮かべてもらうのは難しい。
しかも、昼間の電話は数か月に一度しか起きない。しょっちゅうあることなら、そのたびに少しずつ伝えられる。間が空くと、そのときの話も残りにくい。
母を責める話ではない。働いたことのない場の事情は、誰にとっても想像しにくい。私も、母の一日の細かいところを全部分かっているわけではない。
同じように、親に頼んだ時間の約束が守られないと感じている人は少なくないと思う。守られないのは、約束を軽く見ているからとは限らない。頼んだ側の事情が、親の暮らしからは見えにくいのかもしれない。
昼間の電話に出て動けるのは、家族で私だけだ

母のスマートフォンには、ワンタッチで私と妻と子に電話できるボタンを登録してある。番号は三つあるが、昼間に出て動けるのは、実際には私だけである。
妻も働いているが、職場では休憩時間しか電話に出られない。子にも電話はつながるが、今は遠方に住んでいて、何かあってもすぐには動けない。
母が困って押すボタンのうち、その場で話を聞き、必要なら実家へ向かえるのは私の番号になる。結局、私が出て、要るなら対処するしかない。
それに加えて、出ないと困る事情が二つある。
一つは、母が留守番電話を使えないことだ。入れることも、聞くこともできない。出なければ、私の手元には不在着信が一件残るだけで、用件の手がかりは何もない。
もう一つは、こちらから折り返しても、つながるとは限らないことだ。母は通院でマナーモードにしたまま戻し忘れることがある。固定電話にかけ直しても、出ないことがある。つながらないまま判断がつかず、実家へ車を走らせたこともあった。
出なければ、急ぎかどうかを確かめる方法がなくなる。だから、出る。
出られない時間のために、置いておけるもの
仕事中に電話へ出られない人にとって大事なのは、出られなかったときに、親の側に別の受け皿があるかどうかだと思う。
母の家の電話の横には、親戚や近所の知り合いの連絡先を並べた一覧を置いてある。母が入院したあとに、本人に聞きながら作ったものだ。私につながらないときに、誰に連絡するか。その順番を、親と共有しておく連絡先の考え方として整理したこともある。
急ぎの側だけは、家族とは別の道を用意しておく方がいい。体調が急に悪くなったときは、家族を待たずに救急や近所へ。郵便や勧誘のように待てるものは、家族へ。そう分けておけば、出られない時間があっても、急ぎの連絡が止まらずに済む。
親がスマートフォンで写真を送れるなら、それだけで解決する用件は多い。郵便の相談は、封筒の写真が一枚あれば、仕事の合間に見て返事ができる。母には難しかったが、使える親なら、元気なうちに一度だけ一緒に練習しておく価値はあると思う。
外のサービスに受け皿を頼む方法もある。見守りサービスには、電話で定期的に様子を聞くもの、ボタンを押すと受付につながる緊急通報型、配食や訪問のついでに様子を見るものなどがある。
ただ、どれも万能ではない。緊急通報のボタンは、本人が身につけて押せなければ働かない。電話型は、決まった時間の様子しか分からない。種類ごとの向き不向きは、一人暮らしの親を支える見守りサービスの比較で整理した。仕事中に電話へ出られない時間が長いなら、どの種類なら親の暮らしに合うかを先に見ておくとよい。
母の家には、今のところカメラも専用のセンサーも置いていない。昼の配食と、買い物を頼んでいるヘルパー、ワンタッチで押せる三つの番号。そのうち昼間に出られる、私の携帯。今の受け皿は、その組み合わせである。
重要な会議の最中でも、席を外すと割り切っている
母の電話に出られるのは、職場の事情にも助けられている。
私の職場では、携帯電話を手元に置いておける。席を外せば、私用の電話にも出られる。
ただ、着信が重要な会議の最中に重なることもある。そのときも席を外す。何か言われることがあっても、それは受け止めると割り切っている。
会社がどう見ているかは分からない。快く思われていない可能性もあるが、気にしないようにしている。数か月に一度、数分席を外すことと、一度きりの急ぎの電話を取り逃がすこと。比べれば、出る方を選ぶ。
これは、席を外せる職場だから選べることでもある。会議の途中に抜けられない仕事、接客や現場で電話を持てない仕事もある。そういう働き方なら、前の章の受け皿の方を厚くしておくことになるのだと思う。
母が夕方まで待ってくれる日は、たぶん来ない。それでも、昼間に出て動けるのが私だけである間は、母の名前が出たら、席を立つ。

