お盆や正月に地元の同級生と会うと、昔話だけでは終わらなくなった。
若いころは、仕事の話や子どもの話が多かった。誰がどこで働いているのか。誰の子が何歳になったのか。そんな話をしているうちに時間が過ぎた。
ところが最近は、親のこと、実家のこと、空き家のことが自然に出てくる。誰かが深刻な顔で切り出すというより、近況報告の中に混ざってくる。
親が一人になった。実家に誰も住まなくなりそうだ。墓をどうするか分からない。家を売るにも買い手がいない。草刈りだけでも負担になっている。
そういう話を聞くたびに、これは私の家だけの問題ではないのだと思う。地方に実家を持つ同世代が、同じ時期に、似たような悩みに向き合い始めている。
今回は、お盆や正月に同級生と話す中で見えてきた、同世代の実家問題について書いておきたい。
昔話の中に、実家の話が混ざるようになった

中学時代の同級生とは、今でも年に数回会うことがある。
毎回きちんと集まるというほどではない。お盆や正月のように、地元へ戻る人が多い時期に、都合の合う者だけで顔を合わせる。そのくらいのゆるい集まりだ。
同級生と会うと、最初は昔話になる。
あの先生は厳しかった。
あの部活はきつかった。
あの店はまだあるのか。
誰は今どこに住んでいるのか。
そういう話は、何度しても同じところで笑える。自分たちが年を取っても、当時の記憶だけはあまり変わらない。
だが、話の途中で少しずつ現在の話が混ざる。
親は元気か。
実家には誰が住んでいるのか。
田んぼや畑はどうしているのか。
家の名義は確認したのか。
墓は誰が見るのか。
以前なら、こういう話はまだ先のことだった。親は元気で、実家はそこにあり、盆や正月に帰ればいつものように迎えてくれる場所だった。
今は違う。
親が高齢になり、片方が亡くなり、一人暮らしになっている家が増えた。子ども世代は地元を離れ、それぞれの場所で暮らしている。親が亡くなれば、実家に住む人がいなくなる家も多い。
話している相手は、昔から知っている同級生だ。だからこそ、問題の重さが少し生々しく伝わってくる。
誰も大げさには言わない。
ただ、「うちもそろそろ考えないといけない」と言う。その一言の中に、家、土地、墓、親の暮らし、自分の仕事、きょうだいとの関係が全部入っている。
私も同じだ。
母は実家の離れで一人暮らしをしている。母屋は空き家に近い状態になっている。大工小屋も残っている。墓や仏壇のことも、まだ答えは出ていない。
同級生の話を聞きながら、私は自分の実家のことを考える。
これは特別な家庭の話ではない。50代後半になった私たちの前に、同じような形で現れている問題なのだと思う。
農家を継いだ人と、家を離れた人では見えているものが違う
同級生の中には、地元に残って農家を継いでいる人もいる。
その人は、実家という言葉を私たちとは少し違う感覚で使っているように見える。家も土地も、今の暮らしの一部だ。田んぼや畑は、過去のものではなく、今も手を入れている場所だ。
もちろん、農家を継いだから楽という話ではない。
むしろ、地域の役、田畑の管理、家の維持、親のこと、すべてが日常の中にある。外に出た私たちには見えにくい負担があるはずだ。
ただ、その人には「住んでいる」という強さがある。
家の状態を毎日見ている。近所の変化も分かる。誰の家が空き家になり、誰が戻ってきて、どの土地が動いていないかも肌で知っている。
一方で、私のように地元を離れた人間は、実家を点で見る。
帰省したときに見る。
用事があるときに見る。
親に何かあったときに見る。
日々の変化を線で追えていない。
だから、久しぶりに実家へ行くと、小さな変化に驚くことがある。草が思ったより伸びている。庭木が大きくなっている。雨どいが傷んでいる。使っていない部屋の空気が重くなっている。
地元に残った同級生に聞くと、地域全体の変化も見えてくる。
若い世帯が減っている。
昔は人がいた家に誰も住んでいない。
売りに出ている家があるが、なかなか動かない。
役や作業の担い手が少なくなっている。
その話を聞くと、自分の実家だけを見ていては分からないことがあると気づく。
空き家問題は、一軒の家だけの問題ではない。
周りの家も同じように年を取り、地域全体が少しずつ変わっている。その中で自分の実家だけを、昔の価値観のまま「財産」として見るのは、現実とずれていく。
地元に住み続けている人と、外に出た人。
どちらが正しいという話ではない。見えているものが違うのだと思う。だからこそ、外に出た私は、帰省したときに聞ける話を大事にしたいと思っている。
自分の記憶だけで実家を見ない。
今その地域で暮らしている人の感覚を、少し聞かせてもらう。それだけでも、判断の材料は増える。
「売ればいい」とは、簡単に言えなくなってきた

実家の話になると、以前は「最後は売ればいい」という言い方をする人がいた。
私も、どこかでそう思っていた。
母屋を使わなくなったら売ればいい。誰かに住んでもらえればいい。土地もあるのだから、少しは整理費用の足しになるだろう。
だが、同級生と話していると、その言葉はだんだん出にくくなっている。
売りに出しても買い手がつかない家がある。
解体費用のほうが気になる。
空き家のまま固定資産税だけが続く。
相続したものの、誰も住まない。
荷物が多すぎて、売る前の片付けで止まっている。
こうした話は、珍しいものではなくなった。
もちろん、立地が良ければ売れる家もある。駅に近い、学校や病院が近い、生活の便がいい。そういう場所なら、古い家でも土地として動くことがあるだろう。
だが、私の実家のように公共交通機関がほぼなく、車がなければ生活が成り立たない地域では、話が変わる。
買う側の人数が少ない。
古い家は手直しが必要になる。
更地にしても使い道が限られる。
農地や調整区域が絡むと、さらに扱いが難しい。
同世代が同じ話をするのは、みんなそれぞれの実家で似た現実を見ているからだと思う。
「売れば終わる」という前提が崩れると、実家問題は急に別の姿になる。
売れないかもしれない。
貸せないかもしれない。
壊すにも費用がかかる。
持ち続ければ管理が必要になる。
つまり、選択肢があるようで、どれも軽くない。
同級生の中には、親が亡くなったあとに片付けを始め、想像以上に時間がかかっている人もいる。別の人は、親がまだ元気なうちに話したいが、家のことを切り出すと空気が重くなると言っていた。
その気持ちはよく分かる。
親にとって実家は生活の場所であり、人生の時間そのものでもある。子の側が「売る」「壊す」「片付ける」と簡単に言えば、親は自分の暮らしを否定されたように感じるかもしれない。
だから話しにくい。
だが、話しにくいまま先へ送ると、いつか誰かが一人で抱えることになる。お盆や正月の同級生との会話は、そのことを静かに教えてくれる。
お盆・正月は、実家問題が見えやすい時期でもある

お盆や正月は、実家問題が表に出やすい時期だと思う。
普段は離れて暮らしていても、その時期だけは実家へ帰る人が増える。親と顔を合わせる。家の中を見る。仏壇に手を合わせる。墓参りをする。親戚や近所の人の近況を聞く。
日常から離れていた問題が、急に目の前に並ぶ。
親の歩き方が少し変わっている。
家の中の段差が気になる。
冷蔵庫の中が以前と違う。
使っていない部屋に物が積まれている。
庭や畑の手入れが追いついていない。
墓参りの段取りを親が一人で抱えている。
こういう変化は、毎日見ていると気づきにくいこともある。たまに帰るからこそ、見えるものがある。
一方で、お盆や正月は話しにくい時期でもある。
久しぶりに集まった家族の前で、実家をどうするか、墓をどうするか、相続をどうするかという話を切り出すのは簡単ではない。せっかくの休みに重い話をしたくないという気持ちもある。
私も、母に家や墓の話をするときは身構える。
母はお金や財産の話を好まない。聞いても「大丈夫」と返ってくることが多い。私も、親の暮らしを壊すような言い方はしたくない。
だから、いきなり結論を求めるのではなく、小さな確認から始めるのが現実的なのだと思う。
この書類はどこにあるのか。
この部屋の物は、今も使っているのか。
墓参りはこれからも同じ形で続けたいのか。
近所で何か困っていることはないか。
体調が悪いとき、誰に連絡すればいいのか。
お盆や正月は、家族が顔を合わせる数少ない機会だ。
その時間を、重い会議にする必要はない。ただ、普段見えないものを一つだけ見る。親に一つだけ聞く。写真を一枚撮っておく。書類の場所を一つ確認する。
そのくらいなら、できるかもしれない。
同級生と話していても、みんな一気に解決しているわけではない。草刈りだけは業者に頼んだ。固定資産税の通知だけ確認した。墓のことだけ親に聞いた。そんな小さな話が多い。
大きな決断ではなく、小さな確認の積み重ね。
実家問題は、たぶんそのくらいの入口でないと進まない。
同世代の話は、焦らせるものではなく、現実を測る物差しになる
同級生の実家問題を聞くと、焦ることもある。
あの人はもう家を片付け始めている。
あの人は親と墓の話をしている。
あの人は不動産業者に相談したらしい。
そう聞くと、自分だけが遅れているように感じる。
だが、よく聞いてみると、誰もきれいに進んでいるわけではない。
片付けを始めた人は、思ったより荷物が多くて止まっている。業者に聞いた人は、費用の大きさに驚いている。親と話した人は、親の気持ちが強くて結論を先に送っている。
進んでいるように見える人も、別の場所で迷っている。
それを知ると、少し落ち着く。
同世代の話は、自分を急かすためのものではない。自分の実家だけが特別に難しいわけではないと知るためのものだと思う。
もちろん、だから何もしなくていい、ということにはならない。
同じ悩みを抱えている人が多いということは、問題が自然に消えるわけではない、ということでもある。同じ立場の人が多いから安心、というわけではない。むしろ、似た悩みの人が多いからこそ、私は早めに現実を見ておきたいと思う。
私の場合、まず見るべきものは分かってきた。
母屋と離れの状態。
大工小屋に残る父の道具。
点在する小さな畑。
土地や建物の名義。
固定資産税の通知。
墓と仏壇の今後。
母がどう考えているか。
どれもすぐには終わらない。
だからこそ、同級生との会話をきっかけに、自分の中で順番をつけ直す。今は何を急ぐのか。何は母の気持ちを待つのか。何は専門家に聞くのか。何は写真やメモだけ残しておくのか。
現実を測る物差しは、一つではない。
不動産の価格もある。親の年齢もある。家の傷み具合もある。自分の仕事や体力もある。同級生の話は、その中の一つだ。
同じ地域で、同じ時代に育った人たちが、今どんな問題を抱えているのか。
それを聞くことで、自分の実家を少し客観的に見られるようになる。
自分だけの問題にしないために、話せる相手を持つ
実家問題は、家族の中だけで抱えると重くなる。
親には話しにくい。配偶者には負担をかけたくない。子にはまだ背負わせたくない。きょうだいがいれば意見が分かれることもある。専門家に相談するほど整理できていない段階もある。
そういうとき、同世代の友人と話せることはありがたい。
もちろん、友人が解決してくれるわけではない。
家を片付けてくれるわけでも、墓の答えを出してくれるわけでもない。お金の問題を代わりに背負ってくれるわけでもない。
それでも、同じような話を聞くだけで、少し見え方が変わる。
自分だけが遅れているわけではない。
親に話しにくいのは自然なことだ。
売れない実家で悩む人は他にもいる。
草刈りや固定資産税のような小さな負担も、積もれば重い。
そう思えるだけで、気持ちは少し整う。
私には、地元に住み続けている同級生がいる。地域のことをよく知っていて、何かあれば様子を教えてくれる。実家の近くに、そういう人がいることは心強い。
だが、その存在に甘えすぎてはいけないとも思っている。
地元にいる人には、その人自身の生活がある。地域の役もあり、家族のこともある。こちらが外に出ているからといって、何でも頼んでいいわけではない。
だから、友人には頼るというより、聞かせてもらう。
地域の様子を聞く。
同世代の実家問題を聞く。
自分の実家の見え方を確認する。
そのくらいの距離感が、今の私には合っている。
実家問題は、最後はそれぞれの家で決めることになる。
ただ、完全に一人で考える必要はない。同じような時期を生きている人たちと話すことで、問題の輪郭は少し見えやすくなる。
お盆や正月の集まりは、昔話をするだけの時間ではなくなってきた。
親のこと、家のこと、墓のこと、自分たちのこれからのこと。そういう話が自然に混ざる年齢になったのだと思う。
そのことを、寂しいとは思わない。
むしろ、昔を知っている人たちと、今の現実を少し共有できることは、ありがたいことだと感じている。
実家問題に派手な解決策はない。だが、自分だけの問題にせず、同世代の話を聞きながら、今の実家を一つずつ見ていきたい。
これからも、定時のあとの時間を使って、少しずつ向き合っていく。


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