管理職が親の介護で休むとき、部下にどう見えるか

管理職が親の介護で休むとき、部下にどう見えるか 仕事

親の介護で休むことは、管理職になれば難しくなるのだろうか。

私は今、管理する立場にいる。それでも、母の通院や役場の手続きがあれば、有給休暇や時間単位の有給を使う。

申請する側であると同時に、職場の予定を調整する立場でもある。そのため、自分が休む日は、仕事への影響だけでなく、周囲からどう見えるかまで考えてしまう。

ただ、部下が実際にどう受け取っているかを聞いたわけではないし、休暇申請を承認した経験をもとに書くわけでもない。分からない気持ちを、都合よく代弁することはできない。

そして、休みにくさが役職の順に並ぶわけでもない。言い出しにくさなら、立場が下だったころのほうが強かった。休みを選べる幅も、役職より、賃金の決まり方や仕事の中身で変わる。

ここで考えるのは、周囲の仕事を調整する立場にいる人が、自分の家庭の事情で休むときのことである。

管理職だから休めないという結論ではなく、休む自分をどう扱っているかを書きたい。

管理する立場になっても、親の予定は入ってくる

予定した休みの朝に同僚へ短く会釈して職場を離れる50代後半の会社員

自分の予定を自分だけで決められないのは、役職に関係なく起きる。

ただ、今の私のところには、会議や相談や確認が集まりやすい。私が不在の日は、その分だけ誰かの手元で仕事が待つ。

一方で、親の通院や手続きも、自分の役職に合わせて日を選んでくれるわけではない。病院の予約枠や窓口の時間が先に決まり、その中で仕事を調整することになる。

私は母の通院で終日休むことがある。終了時刻を読める役場や銀行の用事には、時間単位の有給を使っている。介護休暇と介護休業は制度として確認しているが、どちらも取得した経験はない。

休みの名称より先に見ているのは、不在になる時間と、私の返事を待たせてしまう仕事である。介護休暇があっても有給を選ぶ理由には、通院と時間の読める用事をどう分けているかを書いた。

管理職であることは、親を支える必要をなくさない。ただ、休む本人と仕事を調整する人が、自分の中で重なる。

この重なりが、一般の休暇申請とは少し違う迷いを生んでいる。

転職直後は、休んだ自分がどう見えるかを気にしていた

母が最初に入院したころ、私は転職して間もなかった。有給休暇はまだなく、通院への付き添いで休めば欠勤になった。

知らない人の多い職場で欠勤が続けば、周囲にどう見られるだろうと気になった。誰かから責められたわけではない。それでも、まだ仕事ぶりを知ってもらえていない時期だったため、休んだ事実だけが先に残るように感じていた。

当時の私は管理職ではなかった。立場は今と違うが、休む側が周囲の視線を想像してしまう感覚は、今も自分の中に残っている。

その経験があるから、短く書かれた休暇の理由を見ても、それだけで事情を決めつけないようにしたいと思う。「私用」とだけ書かれていても、家族の病気や本人の事情がないとは限らない。

同時に、私は自分の休みについても、必要以上に詳しく説明しない。母の用事であることと、不在時間、止まりそうな仕事を分けて伝える。休暇申請の理由欄に親の介護をどこまで書くかで整理した境界は、管理する立場になっても変わらない。

昔の後ろめたさを、今の部下へ渡したくはない。一方で、昔の自分が気にしていたからといって、今の部下も同じように感じると決めることもできない。

部下にどう見えるかは、最後まで分からない

一人の不在を特別視せず相談しながら仕事を続ける三人の同僚

管理職が休む姿を見て、部下が何を思うか。

家庭の事情があれば休んでよいと受け取る人もいるかもしれない。仕事を残していったと感じる人もいるかもしれない。特に何も思わない人もいるだろう。

これは想像であり、事実ではない。

私が確かめられるのは、休む前後の仕事の状態である。期限を知らせたか。判断を代われる人を決めたか。急ぎでない仕事を待たせたか。休んでいる間に何度も連絡を求める形になっていないか。

親が急に入院した日は、その準備すらできないことがある。私自身、最初の入院では整った引き継ぎができず、当時の仕事内容と働き方に助けられた。親の急な入院で仕事を引き継げなかった経験を振り返ると、緊急時まで完璧に整えることには無理がある。

予定できる休みは準備する。予定できない休みは、分かった範囲を早く伝える。この二つを同じ水準で求めないことも、管理する側に必要な区別だと思う。

もう一つ気をつけたいのは、休む本人の頭の中だけで予定変更を終わらせないことである。

私が不在の日に、誰かの作業が増えるなら、その人へ先に伝える。会議を延期するなら、日付だけでなく、待ってよい判断も共有する。誰が何を引き受けたかが見えないままでは、周囲は休んだ人ではなく、突然増えた仕事だけを見ることになる。

家庭の事情を詳しく説明する必要はない。ただ、仕事をどう変えたかは、関わる人に見える形にしたい。

部下にどう見られるかを直接変えることはできない。それでも、休みのために誰かへ黙って負担を移したのか、相談して仕事の置き場所を変えたのかは、自分で選べる。

どう見られるかを先回りして整えるより、誰が休んでも仕事が回る形へ少しずつ寄せていく。その方が、私にも周囲にも確かめやすい。

伝える手段が増えても、休みの日の連絡はなくならない

休む前日の朝礼で、私は明日は休みをもらうと伝える。午後だけ休む日は、用件のある人は午前中にお願いしたいと付け加える。

最近は全員で共有する日程管理ソフトがあり、各自の予定を見られる状態になっている。私もそこへ、可能な範囲で用件を書いている。細かい事情までは書かないが、大枠が伝わる程度には残す。

道具が増えて便利になったのは間違いない。ただ、伝える手段が増えた分だけ、休みの日の連絡が減るわけではない。

予定表があっても、休みの日に用件は届く。予定を先に見る手順が全員に行き渡っているわけではないし、急ぎなら確かめるより先に電話を取るほうが自然でもある。私自身、相手の予定を見ずにかけたことがある。

社外からの電話は、こちらの予定表を見られない。相手には休みかどうかを知る手立てがないので、ある程度は仕方がないと考えている。

そう考えると、気になるのは自分がかける側になったときである。私には、社外の人の携帯へいきなりかけるのは、よほど親しい相手か急ぎの用でない限り避ける、という感覚がある。まず会社の固定電話へかけるのが、私の中では普通だった。今はその前提も変わってきているのかもしれない。

それでも、相手の手を止めない連絡の仕方は選べる。急ぎでなければ、ショートメールで用件だけ送っておく。携帯の番号しか分からない相手にも届き、いつ読むか、折り返すかどうかは相手が決められる。

休みの日に連絡が入ること自体は、こちらでなくせるものではない。ただ、休んでいる人へ自分がどう連絡するかは、役職に関係なく選べる。そして管理する立場にいれば、その選び方も周囲から見えている。

休む前に埋めすぎると、別の基準を作ってしまう

休みの前日に長時間働き続けず通常の時間に仕事を閉じる50代後半の会社員

自分が休むと決めると、前日までに仕事を詰め込みたくなる。

早く来る。遅くまで残る。休み中も連絡を受ける。戻った日に全てを取り返す。そうすれば迷惑を減らせるように見える。

しかし、それを管理職の標準にすると、「家庭の事情で休むなら、先にそれだけ働くものだ」という別の基準を作りかねない。

私には、定時に帰ることを恥ずかしいと感じていた時期がある。長く残る姿が仕事への熱意に見え、自分もその空気に合わせていた。定時に上がることを恥だと思っていたころを振り返ると、上にいる人の行動は、言葉にしなくても職場の基準に見えやすい。

休む前の準備は必要である。ただし、準備と埋め合わせは同じではない。

必要な仕事を渡し、期限を変え、待てるものを待たせる。休み中に連絡を受ける条件も絞る。すべてを自分の追加労働で吸収しない形にしたい。

それは、自分を楽にするためだけではない。次に誰かが休むとき、その人へ同じ埋め合わせを求めないためでもある。

仕事を調整する立場でも、休み方を示す一人になる

管理職が親の介護で休むことを、特別な美談にはしたくない。

家族の事情を詳しく話せる人もいれば、話したくない人もいる。短い休みで戻れる人もいれば、長い調整が必要になる人もいる。役職が同じでも、家庭の条件は同じではない。

長く休む必要が出たら、有給休暇の繰り返しだけで抱えず、期間、収入、引き継ぎ、復帰後を分けて考える。介護休業を申請する前に確認することを整理したときも、管理する立場にいるからこそ、仕事を渡す範囲まで含めて考えた。

今の私にできるのは、部下の気持ちを決めることではない。

休む理由と仕事への影響を分ける。予定できる休みは早く伝える。緊急時は完成した説明を求めない。休む前後の長時間労働を、当然の交換条件にしない。

そして、自分が休む日にも同じ考え方を使う。

私は、周囲の仕事を調整するだけの人ではない。自分も休む側の一人であり、その休み方は職場から見えている。

だから次に母の用事で休むときは、申し訳なさを増やすより、私がいなくても判断できる範囲を一つ広げてから職場を離れる。

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