親の老いを見ていると、もの忘れが気になる場面は少しずつ増える。
同じ話を何度か聞く。置いた場所を忘れる。日付を間違える。電話で話していて、前より返事に時間がかかる。
そのたびに、これは年齢相応なのか、それとも認知症のサインなのかと考える。
ただ、家族がすぐに認知症だと決めつけるのは違う。本人を不安にさせるし、関係もこじれやすい。一方で、気のせいだと思って見過ごすのも怖い。
大事なのは、診断名を急ぐことではなく、「いつもと違う」が暮らしの中で繰り返されていないかを見ることだと思う。今回は、親の認知症が心配になったとき、どこを見て、どう相談につなげるかを、母の一人暮らしを見ながら私なりに整理しておきたい。
親の認知症を、家族が決めつけてはいけない

認知症という言葉は、重い。
親の言い間違いやもの忘れを見ると、ついその言葉が頭に浮かぶ。高齢の親を支えている家族なら、一度は考えたことがあるのではないか。
私もそうだ。
母は今、実家の離れで一人暮らしを続けている。昼食は配食サービスを使い、私は週に一度ほど買い物や書類の確認に行く。電話もするが、母はスマホの操作が得意ではない。マナーモードを戻し忘れたり、着信に気づかなかったりすることもある。
そういう場面があると、少し気になる。すぐに不安になるというほどではないが、頭の片隅には残る。
電話に出ないのは、ただ気づかなかっただけなのか。体調が悪いのか。操作が分からなくなっているのか。判断力が落ちているのか。
一つひとつは、はっきりしない。
だからこそ、家族の側が勝手に「認知症かもしれない」と決めつけるのは危うい。年齢を重ねれば、誰でも忘れることはある。耳が聞こえにくい、目が見えにくい、疲れている、薬の影響がある。そういうことでも、受け答えは変わる。
最近、母の耳が遠くなってきた。電話をかけても聞き取れないことが増え、本人も聞こえにくいと言う。特に右耳がと言いながら、電話は右手で右耳に当てる。長年の習慣が体に染みついているのだろう。聞こえにくい側の耳で電話をしていると分かっていて、左に替えたらと伝えても、次にかけたときにはまた右耳に戻っている。
これが認知の問題なのか、年齢とともに新しい動作を身につけにくくなっているだけなのか、私には区別がつかない。こういう判断の難しさが、認知症を心配するときにはいつもつきまとう。
母の場合も、認知症と決まったわけではない。
むしろ、母にはまだ自分でできることがたくさんある。好きな食べ物も覚えているし、配食を楽しみにしている。買い物に行ける日は、外に出ること自体が気分転換になっている。
それでも、年齢によるもの忘れと、暮らしに支障が出る変化は分けて見たい。
年齢のせいとして全部を流すのでもない。「認知症ではないか」と本人にぶつけるのでもない。その間にある小さな変化を、静かに見ておく必要がある。
年齢相応のもの忘れと、気にしたい変化

認知症について調べてみると、よく出てくるのは「もの忘れ」だ。
ただ、もの忘れだけで判断するのは難しい。
私自身も、人の名前がすぐ出てこないことがある。冷蔵庫を開けて、何を取るつもりだったか忘れることもある。仕事でも、メモを見なければ抜けることが増えた。50代後半の私でさえそうなのだから、80歳を過ぎた母にもの忘れがあるのは自然なことでもある。
気にしたいのは、忘れたことそのものより、その後の暮らしへの影響だと思う。
たとえば、同じ話をすること自体は珍しくない。だが、ついさっきの出来事を何度も聞く。約束をしたこと自体を忘れる。説明した手続きがまったく残っていない。そういうことが続くなら、単なるうっかりとは少し違って見える。
置き忘れも同じだ。
鍵や財布を探すことは誰にでもある。けれど、いつもとは違う場所にしまい込むことが増える。なくした理由を思い出せない。探す時間が増え、生活が回りにくくなる。そこまで来ると、気にしておきたい。
日付や曜日の間違いも、少し難しい。
毎日同じような生活をしていると、曜日の感覚は薄れやすい。私でも休みが続けば分からなくなる。だが、通院日や配食の受け取り、薬のタイミングに影響するなら、暮らしの問題になる。
認知症を心配するときに見る点は、もの忘れがあるかどうかだけではない。
生活の段取りが崩れる。判断に時間がかかる。慣れていたことに戸惑う。お金や書類の扱いが前より難しくなる。人とのやり取りが億劫になる。
そういう変化が、少しずつ重なっていないかを見るのだと思う。
「いつもと違う」は、暮らしのあとに出る

母に聞くと、たいてい「大丈夫」と返ってくる。
体調も大丈夫。食事も大丈夫。困っていることはない。
この「大丈夫」をどこまで信じるかは、以前から私の中で大きなテーマだった。母が嘘をついているとは思わない。ただ、自分の状態を言葉にするのが得意ではない。心配をかけまいとして、反射的に大丈夫と言ってしまうところもある。
だから、認知症が心配になる場面でも、言葉だけでは決めないようにしている。
見るのは、暮らしのあとだ。
配食の容器が残っていないか。冷蔵庫に同じものばかり増えていないか。薬やストマ用品の減り方に不自然さはないか。郵便物が開けられずにたまっていないか。火の元や暖房の使い方に無理が出ていないか。
こういうところには、本人が説明しない変化が出る。
たとえば、食事をしたかどうかを聞けば、母は食べたと答える。けれど、実際に見れば、食べる量が減っていることもある。冷蔵庫の中を見れば、買えているものと買えていないものが分かる。台所を見れば、料理をする気力や手順が保てているかも少し見える。
書類もそうだ。
役所や保険、病院からの封筒は、高齢の親には負担が大きい。母はもともと書類が得意ではない。だから、書類を開けられないことだけで認知症とは言えない。
ただ、以前なら私に相談していた書類をそのままにする。締切が近いことに気づかない。大事なものと不要なものの区別がつきにくくなる。そういう変化が続くなら、注意して見たい。
気になる変化は、本人の発言よりも生活の乱れに出やすいのかもしれない。
しかも、その乱れは最初から大きくはない。容器が一つ残る。封筒が一通たまる。薬の数が合わない気がする。電話で少し話がかみ合わない。
一つなら、たまたまだ。
けれど、同じようなことが何度も続くなら、「いつもと違う」として残しておいた方がいい。
怒りっぽさや不安も、性格だけで片づけない
認知症が心配になる場面というと、記憶の問題ばかり考えがちだ。
しかし調べてみると、気分や行動の変化も見逃せないとされている。怒りっぽくなる。不安が強くなる。意欲が落ちる。人と会うのを避ける。慣れたことを面倒がる。
こういう変化は、家族には判断しにくい。
もともとの性格もある。体調が悪い日もある。耳が聞こえにくければ、会話が面倒になる。目が見えにくければ、書類を見る気力も落ちる。私自身、疲れている日は返事が雑になる。
だから、親が少し不機嫌だったからといって、すぐ認知症と考える必要はない。
ただ、「前はこうではなかった」という変化は見ておきたい。
母はもともと、人と話すのが得意な方ではない。困りごとを言葉にするのも上手ではない。だから、無口になっただけで変化とは言いにくい。
それでも、買い物に行くのを楽しみにしていたのに、行きたがらなくなる。配食の受け取りを楽しみにしていたのに、関心が薄れる。電話で話していて、以前より不安そうな言葉が増える。そういう変化が続けば、気になる。
親の性格を知っている家族だからこそ、分かる違いがある。
医師やケアマネジャーは、毎日の母を知らない。初めて会った場面だけでは、普段との差は分かりにくい。だから家族が「前と比べてどうか」を見ておく意味はある。
ただし、それを本人にぶつけない。
「最近様子が違う」と急に言われれば、誰でも戸惑う。まして親なら、子にそう見られていること自体がつらいはずだ。
私は、気になる変化があっても、まず自分の中で言葉を整えるようにしたい。性格の問題として責めない。年齢のせいだけにしない。暮らしの変化として、淡々と見る。
メモに残すと、相談しやすくなる

認知症かもしれないと思っても、すぐ病院に連れて行くのは簡単ではない。
本人が嫌がることもある。家族が言い出しにくいこともある。そもそも、何をどう説明すればよいのか分からない。
そこで大事なのは、気になったことをメモに残すことだと思う。
難しい記録でなくていい。
いつ、何があったか。前と何が違ったか。生活にどんな影響があったか。その三つだけでも残しておく。
たとえば、同じ話を何度もしたなら、「何の話を、どのくらいの間隔で繰り返したか」を書く。薬が残っていたなら、「何日分くらい合わなかったか」を書く。郵便物がたまっていたなら、「どんな封筒が、いつ頃から残っていたか」を書く。
感情は少なめでいい。
「心配だった」「困った」と書くより、事実を書いておく。そうすれば、あとで相談するときに伝えやすい。
相談先としては、かかりつけ医、地域包括支援センター、ケアマネジャーなどがある。厚生労働省の認知症施策でも、早めに相談し、本人や家族が支援につながることの大切さが示されている。
地域包括支援センターは、高齢者の暮らし全般を相談できる窓口だ。医療の診断をする場所ではないが、どこへ相談すればよいかを一緒に考えてもらえる。
家族だけで抱えると、どうしても感情が入る。
親を疑っているようでつらい。本人に悪い。まだ大丈夫だと思いたい。そうしているうちに、相談が遅れることもある。
メモは、親を監視するためではない。
気になった変化を、責めずに第三者へ伝えるための準備だ。母を追い詰めないためにも、私自身が慌てないためにも、記録は役に立つと思う。
見守りは、疑うことではなく早く気づくこと
認知症を心配して様子を見るというと、親を疑っているようで気が引ける。
私もそこに抵抗がある。
母の暮らしを、細かく管理したいわけではない。本人が自分でできることは、できるだけ残したい。好きなものを食べ、行ける日は買い物へ行き、離れで自分のペースで暮らす。その時間は、母にとって大事なものだ。
ただ、一人暮らしだからこそ、変化に気づく人が少ない。
同居していれば、朝の様子や食事の量、会話の流れを毎日見られる。離れて暮らしていると、それができない。週に一度の訪問や電話、配食の受け取り、ヘルパーの買い物支援など、限られた接点から拾うしかない。
だから、見守りの意味を少し変えて考えるようになった。
見張るのではない。
早く気づくために、接点を増やす。
電話で一言話す。訪問したときに冷蔵庫を見る。書類を一緒に確認する。配食の様子を聞く。ヘルパーやケアマネジャーに、気になることがあれば教えてもらえる関係を作る。
一つひとつは小さい。
けれど、小さな接点がいくつかあると、「いつもと違う」に早く気づける。家族だけで背負わず、外の目も少し入る。
認知症は、家族が隠して何とかするものではないのだと思う。
もちろん、本人の気持ちは大事にしたい。周りに言いふらす話でもない。だが、必要な相談先につながることまで遠慮してしまうと、本人も家族も苦しくなる。
見守りは、親を疑うことではない。
母ができるだけ長く、自分の暮らしを続けるための備えだ。気づくのが早ければ、選べる支援も増える。本人の希望を聞く余裕も残る。
「いつもと違う」を一人で抱えない
親の認知症が心配になる変化は、劇的な出来事として現れるとは限らない。
同じ話が増える。段取りが崩れる。書類がたまる。薬の管理が怪しくなる。外に出る気力が落ちる。お金や火の元の扱いに不安が出る。
一つひとつは、年齢相応にも見える。
だから、家族は迷う。
私も、まだはっきりした答えを持っていない。母の変化をどこまで年齢として受け止め、どこから相談につなげるか。その線引きは、これからも揺れると思う。
ただ、今のところ決めていることはある。
認知症だと決めつけない。年齢のせいだけにもしてしまわない。気になった変化は、日付と事実で残す。そして、同じことが続くなら、家族だけで抱えず、かかりつけ医や地域包括支援センターに相談する。
親の老いは、こちらの都合に合わせて分かりやすく進んではくれない。
だからこそ、普段の母を知っている家族が、「いつもと違う」を静かに拾っておく。その積み重ねが、必要な支援に早くつながるのだと思う。
派手なことではないが、母の暮らしを守るために、見落としたくない変化を一つずつ記録していく。定時のあとの時間を使って、少しずつ進めていく。


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