ずっと視力が良かった私が、老眼鏡を手放せなくなった

ずっと視力が良かった私が、老眼鏡を手放せなくなった 人生後半

若いころから、視力だけは困ったことがなかった。

健康診断で視力を測っても、だいたい良い数字が出る。黒板や会議室の資料が見えにくいと思ったこともほとんどない。眼鏡をかける生活は、自分にはあまり関係のないものだと思っていた。

ところが40代を過ぎたころから、近くの文字が少しずつ読みにくくなった。

最初は照明のせいだと思った。小さな文字の印刷が悪いのだと思った。携帯電話の画面が見えにくいのも、疲れているからだと考えていた。当時はまだガラケーの時代で、画面は小さく、文字を拡大する機能も今のスマホのようにはいかなかった。

けれど今は、老眼鏡がないとスマホも新聞もほとんど読めない。出張カバンにはスペアの眼鏡を入れている。数年ごとにレンズも合わなくなる。

ずっと視力が良かったからこそ、この変化は思っていた以上に身近で、少しだけ不思議なものだった。

視力が良いことを、当たり前だと思っていた

私は、目で困る生活をあまりしてこなかった。

学生のころも、社会人になってからも、遠くが見えないことで困った記憶は少ない。会社の健康診断で視力を測っても、大きな問題はなかった。周りには近視の同僚も多く、朝から眼鏡やコンタクトの話をしている人もいたが、私はそこに入ることがなかった。

だから、目が見えることを、少し雑に扱っていたところがある。

仕事で細かい資料を読む。パソコンに向かう。携帯電話を見る。新聞や本を読む。そういうことは、特に意識しなくてもできるものだと思っていた。

見えにくいなら近づければいい。暗ければ明るいところへ行けばいい。疲れているなら少し休めばいい。その程度に考えていた。

今思えば、遠くが見えることと、近くが見えることは同じではなかった。視力検査で良い数字が出ることと、手元の小さな文字を楽に読めることも同じではない。

けれど、老眼を実感するまで、その違いを真剣に考えたことはなかった。

最初は、認めるまでに少し時間がかかった

薄暗い店のメニューとテーブルに置いた老眼鏡

老眼を最初に感じたのは、40歳を過ぎたころだった。

小さな文字を読むとき、少し距離を取った方が見えやすい。ガラケーの小さな画面に表示される文字が、どうにも合いにくい。薄暗い店でメニューを見ると、何となく焦点が合わない。

私は外食が好きなので、メニューが見えにくくなったことは地味にこたえた。店の照明が暗ければなおさらで、何が書いてあるのか分からないまま注文することもあった。

そのころは、まだ老眼鏡を使うほどではなかった。

目が疲れているのだろうと思っていた。携帯電話の見すぎだろうとも思った。仕事でパソコンを使う時間が長いから、夕方になると見えにくくなるのだと片づけていた。

老眼という言葉を、自分に向けて使うのに抵抗もあった。

年齢を重ねれば誰にでも起きることだと分かっていても、どこかで「自分はまだ大丈夫」と思いたかったのだと思う。体力の衰えや健康診断の数字と同じで、変化そのものより、それを認めることに少し時間がかかる。

「たまに必要なもの」が、「ないと困るもの」になった

最初の老眼鏡を買ったとき、生活が変わるというほどではなかった。

必要なときだけ使う。細かい字を見るときだけ出す。新聞や書類の小さい文字だけ助けてもらう。そういう補助の道具だと思っていた。

ところが、そこから少しずつ使う場面が増えていった。

薬の説明書を見る。家電の小さな表示を見る。スマホで銀行や保険の画面を見る。出張先で領収書を確認する。実家で母の書類を見る。

気づけば、老眼鏡なしでは日常の用事がこなせなくなっていた。

今は遠近両用の眼鏡を常にかけている。目の疲れや頭痛がひどかった時期に眼科医に相談し、中近両用のレンズも試したことがある。結果的に私には使い分けが合わなかったが、眼鏡との付き合い方にもいろいろな選択肢があることを知った。このあたりの話は、いずれ改めて書きたいと思う。

眼鏡は時にお洒落のアイテムにもなるが、私にとっては体の一部に近い。朝起きたら顔を洗うように、眼鏡をかけなければ一日が始まらない。

出張先では、もっと切実になる

出張カバンに入れたスペアの老眼鏡と眼鏡ケース

最近は、老眼鏡を一つだけで済ませるのが不安になってきた。

家の机に置くもの。会社で使うもの。出張カバンに入れておくもの。気づけば、いくつかの場所に眼鏡を置くようになっている。

日本であれば、万が一のときにも手は打てる。百円ショップでも老眼鏡は買える。文具店や書店、雑貨店でも手に入る。度数は合わなくても、応急的には何とかなる。

海外出張では、そうはいかない。

どこに売っているかも分からない。そもそも日本のように手軽に老眼鏡が手に入る国ばかりではない。仮に見つかっても、日本人の顔に合うかどうかは別の話だ。新幹線や飛行機の中で資料を見る。ホテルでスマホを確認する。領収書を整理する。会議の前に手元のメモを見る。そういうときに眼鏡がなければ、仕事の段取りまで怪しくなる。

以前なら、財布やスマホや充電器を確認していた。

今はそこに老眼鏡が加わった。

スペアの眼鏡を持つことは、年齢を実感する小さな出来事の一つだ。

見える前提を、少しずつ整えていく

老眼鏡を使うようになって、年を取ることは急に何かを失うことではなく、前提が少しずつ変わることなのだと思うようになった。

若いころと同じ距離では読めない。暗いところでは見えにくい。疲れると焦点が合いにくい。小さな文字を見るときには、道具がいる。

どれも大げさに嘆くことではない。だが、見ないふりをすると、生活の小さなところで困る。

母の書類を見るときも、仕事の資料を見るときも、健康診断の結果表を見るときも、まずは文字が読めなければ始まらない。親を支えることも、自分のこれからを考えることも、手元の文字を読む力に支えられている。

最近は、文章をスマホやタブレットで読むことが多くなった。文字サイズを自由に変えられる。拡大縮小も指先一つでできる。画面の明るさも簡単に調整できる。飛行機の中で照明が落ちても、手元の画面だけで読み続けられるのは便利だ。

ただ、その便利な道具が、目をさらに酷使しているとも感じている。見やすいからつい長く見る。寝る前にも画面を眺める。便利さが視力の負担を増やしているという悪循環を、どこかで自覚している。

老眼鏡を持つことは、年齢を認めることでもある。それは少し寂しい反面、自分の変化に合わせて生活を整えることでもある。

答えは大きくない。まずは、自分の見え方を過信しないこと。合わない眼鏡を我慢しないこと。小さな変化を、年齢のせいだけで片づけないこと。

派手な健康管理ではないが、今の私にはこういう整え方が合っている。

定時のあとの時間を使って、自分の見え方と付き合う準備を少しずつ進めていく。

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