母が退院したとき、最初に直面したのは「この人をどこで、どう暮らさせるか」という問いだった。病院は治してくれるが、退院後の生活まで面倒は見てくれない。約2か月間のマンション同居を経て実家に戻すまでの経緯と、一人暮らしを続けられるように整えた仕組みをまとめておく。
退院前に、ソーシャルワーカーと話した
退院が近づいたころ、病院のソーシャルワーカーから声をかけられた。「退院後の生活について、一度お話しませんか」という連絡だった。
正直、ソーシャルワーカーという職種をそれまで意識したことがなかった。医療と福祉をつなぐ専門家で、退院後の生活設計を一緒に考えてくれる人だと、そのとき初めて理解した。
母はがんの手術を受け、退院後もストマを装着して生活することになっていた。ストマのケアをどうするか、一人暮らしを続けられる状態かどうか、家族のサポートがどこまで必要か。そういった話をソーシャルワーカーと整理した。
実家は公共交通機関がほぼない地域にある。徒歩圏内に小さなスーパーが一軒あるだけで、医療機関に行くにも車が必要な場所だ。母はちょうど退院後のタイミングで免許を返納していた。
「しばらくは家族のそばで様子を見てはどうか」というのがソーシャルワーカーからのアドバイスだった。私もそれが現実的だと思っていたので、退院後はいったん自宅のマンションに母を迎えることにした。
和室6畳で2か月過ごした
私が住むのは街中の3LDKのマンションだ。妻と子どもの3人暮らしで、子どもはちょうど就職したばかりでマンションから通勤していた。余分な部屋があるわけではなく、居間に隣接した和室が一部屋あったので、そこを母の部屋にすることにした。6畳の和室で、襖一枚を隔てた隣が居間という間取りだった。
妻も私も共働きで、日中は誰もいない。私は帰宅時間が不規則になりがちで、妻の方が比較的安定していた。夕食の支度をしながら母の様子を見る形になったのは、必然的に妻だった。それで何とか回ってはいたが、十分な看護ができていたかといえば、正直そうではない。
帰宅後の食事の音、テレビの音、家族の会話。すべてが筒抜けに近い環境だった。母にとって落ち着いて休める場所だったかどうかは、今でも少し引っかかっている。
入院中に体力が落ちていた母も、1か月ほど経つと少しずつ動けるようになってきた。近所のコンビニやショッピングモールに一人で出かけ、自分で買い物してくるようになった。回復が進んでいることは素直に喜ばしかった。
ただ、外に出られるようになったころ、別のことが目に入ってきた。
妻がいつも財布に数千円は入っているようにしていた。家には食べ物も用意してある。外出時に困らない程度のお金のつもりだった。ところが母は「足りない」と言うようになった。
悪意があったわけではないと思う。久しぶりに自分の足で外を歩き、好きなものを買えることが単純に嬉しかったのだろう。一人暮らしの中で自分のペースで動いてきた習慣が、そのまま出た。馴染みのない街で、買い物以外にやることがなかったという事情もある。それはある意味で、自然なことだったとも思う。
保険の問題を整理したときもそうだったが、お金の感覚のずれというのは、日常の中に踏み込んでみて初めて見えてくることが多い。
同じような状況を抱える家庭は、少なくないのではないだろうか。同居が始まってみると初めて見えてくるものがある。
同居を続けるか、実家に戻すかを考えた
2か月が経つころ、今後のことを本格的に考えるようになった。
このまま同居を続ける選択肢もある。近くにいられる安心感はある。何かあればすぐに気づける。ただ、狭いマンションでの暮らしは、双方にとって負担がある。家族の時間が削られ、プライバシーも限られる。精神的なゆとりが少しずつ失われていく感覚があった。
一方、実家に一人で戻すことへの不安もある。公共交通機関がない地域で、片道1時間近くかかる距離だ。何かあったとき、すぐ駆けつけられない。
どちらにも、いい面と悪い面がある。正解のない選択だった。
最終的に、実家に戻すことを選んだ。
決め手は母自身の様子だった。体調が戻るにつれて、自分の家に帰りたいという気持ちが言葉や態度からにじみ出ていた。それを押さえて同居を続けることが、果たして本人のためになるのか。私にはそう思えなかった。
もう一つ、気になっていたことがある。実家の周辺には、母が長年付き合ってきた近所のつながりがある。この年齢から全く異なる環境に移り、新たなコミュニティーをゼロから築くのは、容易ではないと思っていた。
ただし、以前と同じ状態で戻すわけにはいかなかった。実家を「一人で暮らせる場所」に整えてから戻す必要があった。
離れを住める状態に整えた
実家の離れは平屋で、もともと私と妻と子どもが暮らしていた場所だ。私が引っ越してからはそのままになっていて、母が移り住むにあたってひと通り手を入れる必要があった。その苦労については別の記事でも触れたが、退院後の生活を前提にすると、さらに細かく見直すべき点があった。
母がこれまで暮らしていた母屋と、離れを比べると、離れの方が一人暮らしには明らかに向いている。母屋は浴室が広すぎて、浴槽にお湯を張るのも手動だ。寝室は2階にあり、日常的な移動範囲が大きくなる。離れはユニットバスでお湯もワンタッチで溜まる。生活空間がコンパクトにまとまっていて、高齢の一人暮らしにはむしろ使いやすい造りだと思う。
まずストマ用品の置き場を整えた。道具が取り出しにくい場所に入っていたので、棚の配置を変えてすぐ手が届くようにまとめた。
次に緊急連絡先を整えた。私の携帯番号、妻の番号、かかりつけの医療機関の番号を大きな字で紙に書き、電話の横に貼った。スマートフォンの操作が不慣れな母には、紙で手が届く場所にある方が確実だ。
あわせて、スマートフォンをシニア向けの操作しやすい機種に替えた。ワンタッチで発信できるボタンに、私と妻と娘の番号を登録している。
介護保険の申請はソーシャルワーカーとの相談で進めた。ただ、認定された要介護度は低く、「この等級ではたいして頼めない」と思い込んでしまった。結果として、ヘルパーへの依頼は最小限に抑え、食事や買い物の対応は自分たちで考えることにした。
今から思えば、もう少し早い段階から積極的に頼むべきだった。要介護度が低くても、活用できるサービスはある。勉強不足のまま自分で判断して、選択肢を狭めていたことは、今も少し後悔している。
近所の方にも一言伝えた。「母が戻ってきます。何か気になることがあれば連絡をください」それだけだ。気の置けない関係の方が何人かいて、快く受け取ってくれた。地域のつながりが薄れていると言われる時代だが、実家のある地域では今もそういう関係が残っている。
毎晩の電話ルールも決めた。仕事が終わった時間に電話する。母が出なければ何か異変があったとわかる。シンプルだが、これが安否確認の基本になっている。
食事と買い物の仕組みを作った
実家に戻してから、もっとも気になったのは食事だった。
実家周辺には飲食店もない。料理をする気力や体力が落ちれば、食事の質がそのまま下がる。かといって毎回私が届けることはできない。
配食サービスを調べて、お昼ご飯を毎日届けてもらうことにした。栄養バランスのとれた食事が自宅に届く仕組みで、安否確認も兼ねてくれる。何か気になることがあれば連絡をもらえることになっている。最初は「そんなものは要らない」と渋っていたが、使い始めると「楽でいい」と言うようになった。
買い物は、私が週に1〜2度、仕事帰りか週末に実家へ立ち寄るタイミングでまとめて行うようにした。日用品はネット通販で手配し、自宅に届く形に切り替えた。
徒歩圏内にスーパーが一軒あるが、母が自分で行けるようになるまでに1年近くかかった。退院直後はゴミ出しに行くことさえひと苦労で、それだけで精一杯だった。そのことを考えると、買い物や食事を外から支える仕組みを最初から整えておいて、よかったと思っている。
正解かどうかは、まだわからない
実家に戻してから、月数回の訪問を続けている。電話は最初こそ毎晩かけていたが、お互いの生活リズムに合わせて徐々に減らし、今は週に数回になった。大きなトラブルはまだ起きていない。
ただ「正解だった」とは言い切れない。何かあったとき、私は遠い。移動に1時間近くかかる。夜に晩酌をしていれば、すぐ車で向かうこともできない。そのリスクは今も消えていない。
同居を続けていたら、それはそれで別の問題が出ていたかもしれない。どちらが良かったかは、今後の経過を見るしかない。
50代後半になって感じるのは、親の問題に「正解を選ぶ」というプロセスはないということだ。その時点でできる準備をして、動いて、様子を見て、また考える。それが繰り返される。
定時のあとの時間を使って、少しずつ整えていくしかない。それが今の私にできることだと思っている。
関連記事:母の通院に付き添うということ


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