一か月ほど前、実家の草を刈った。
敷地のあちこちを、一日かけて回った。終えたときは、見違えるようになったと思った。帰りの車で、しばらくは大丈夫だろうと考えていた。
先日また実家へ行って、その場所を見た。
刈る前に戻っていた。どこも青々として、背丈もそれなりにある。自分がやった一日が、そっくりなかったことになっていた。
正直に言えば、気持ちが下がった。ただ、そのがっかりの中身を考えていくうちに、自分が実家の外回りを何だと思っていたのかが分かってきた。ここでは、そのことを書く。
刈った場所が、刈る前に戻っていた
戻り方に差がある、ということもなかった。
日当たりのいい場所も、木の陰になる場所も、似たように伸びていた。かつて畑にしていた一角が、いちばん勢いがある。ここは以前からそうで、何も植えていない場所ほどよく育つ。
一か月というのは、自分の感覚では「この前」である。
ところが草にとっては、ひと区切りつくだけの長さがあったらしい。刈った直後の状態を頭に置いたまま次に来たので、差がそのまま落差になった。
このとき、自分が何にがっかりしているのかが、少し分かりにくかった。
草が伸びたこと自体は、当たり前の話だ。腹を立てる相手でもない。ではなぜ気持ちが下がるのかというと、一日かけた作業には、それに見合うだけの「持ち」があるはずだと思っていたからだった。
仕事でも家のことでも、手をかけたぶんは残る、という感覚が身についている。片付けなら、片付けた場所は片付いたままだ。修理なら、直したところは直っている。外回りも同じつもりでいた。
そこが違った。
道具は替えた。それでも、戻る速さは変わらなかった

この一年で、道具は変えている。
以前は人の力だけの道具でやっていたが、実家の草刈りが年々こたえるようになったころから、それでは続かなくなった。そこで、充電式の草刈機を買った。
最初はチップソーの刃をつけて刈っていた。よく刈れる。ただ、小石が跳ぶのが気になった。
敷地の中には砂利も石も混じっている。跳んだ先に何もなければいいが、いつもそうとは限らない。自分の足元だけの問題でもない。気にしながら刈るくらいなら別のやり方にしようと思い、草を刈るためのヘッジトリマーを買い直した。
こちらは刃が横に並んでいて、挟んで切る。飛び散りが少なく、音も自分にはそれほど気にならない。買い直した分の出費はしたが、こちらに替えてよかったと思っている。
なお、垣根を切るのはこれとは別の道具である。同じヘッジトリマーという呼び名でも、地面の草を刈るものと、垣根の枝を落とすものは別物だ。垣根用は手で持つ小さいほうで、こちらは最近になって買い増した。
つまりこの一年で、草刈機を買い、刃の付いたものからヘッジトリマーへ買い直し、さらに垣根用を足している。道具は増えた。
そのうえで、結果はさっきのとおりである。
道具を替えて楽になったのは、刈る側の体だった。刈られた側の戻る速さは、何も変わっていない。
当たり前と言えば当たり前なのだが、道具を買うとき、自分はそこを混ぜて考えていた気がする。いい道具にすれば作業が楽になる。作業が楽になれば、この問題は小さくなる。そう思っていた。
小さくなったのは作業の負担で、問題のほうは同じ大きさで残っていた。
9か月と書かれていた除草剤が、一か月でこうなった

駐車スペースには、別の手も打っていた。
草を刈ったあと、粒になっている除草剤をまいた。液体のものと迷ったが、まくだけで済む粒のほうが手軽だと思って選んだ。
表示には、9か月ほどもつという意味のことが書かれていた。同じ棚に並んでいたものを見るかぎり、値段によってこの期間は違うようだった。私が買ったのは9か月と書かれたものである。それなら来年の春まで気にしなくていい、と受け取った。
次に行ったときには、結構生えていた。一か月である。
何もしなかった場所と比べれば、少ないようにも見える。ただ、少ないと言い切れるほどの差でもない。効いていないとまでは思わないが、期待していた状態とはずいぶん違った。
製品が悪かった、とは考えていない。
まき方や時期が適切でなかった可能性のほうが高いと思っている。雨のこと、土の状態、まく量。そのあたりを確かめずに、袋の表示だけを見て、その日にまいた。使う側の手順が雑なら、書かれたとおりにならないのは無理もない。
それに、9か月という数字の受け取り方も間違えていた。
私はそれを「9か月は行かなくていい」という意味で受け取っていた。実際には、そこから逆算して次の予定を立てるための数字だったはずだ。対策をしたから安心なのではなく、対策をしたぶん次が少し先になる、というだけの話だった。
使う場所も、今のところ広げていない。まいているのは駐車スペースのように、残したい植物がない場所だけである。土に薬をまくことへの抵抗が、自分の中にまだある。何も分かっていないから怖い、という程度の話ではあるが、分からないうちは広げないことにしている。
薬剤の中身や正しい使い方については、私は説明できる立場にない。使うなら、製品の表示と、自治体が出している注意を先に読むべきだと思う。ここで書けるのは、一度で片がつくつもりで使ったことが、そもそもの間違いだったということだけである。
母は、月に一、二度、目立つ前に手を入れていた

母がまだ手を入れていたころ、実家の外回りを見て荒れていると思ったことはなかった。
私はそれを、草があまり生えない場所なのだと思っていた。実際には、生えていなかったのではない。目立つ前に処理されていたのである。
聞いてみると、月に一、二度は手を入れていたという。
一回の作業は、たぶん大したものではなかったはずだ。伸びてきたところを抜いて、はみ出した枝を落として、その日のうちに終わる。暮らしの中の、家事のような時間だったのだろうと思う。
私のやり方は、それとはまったく違う。
年に数回、一日を空けて、まとめて刈る。回数が少ないぶん、一回が重い。しかも、次に来るまでの間隔が長いので、来るたびに「戻っている」ところから始めることになる。
同じ「草刈り」という言葉を使っているが、やっていることは別物だ。母のは維持で、私のは復旧に近い。
母を、黙って全部やってくれていた人として書くつもりはない。本人にとっては特別なことではなかっただろうし、そう言われても困ると思う。ただ、手が入らなくなって初めて、それまで手が入っていたと分かったのは確かだった。
外回りをやめたことは、母の暮らしが変わっていく中の一つでもある。何ができなくなったかを一つずつ数えるのではなく、母の一人暮らしがいつまで続けられるのかを考えるときの材料の一つとして見るようにしている。
墓参りのつもりで行った日に、枝を切ることになった
八月、墓参りのために実家へ行った。
その日は作業の予定ではなかったので、いつもの長袖の作業服ではなかった。ところが着いてみると、道路側の垣根から枝と草が飛び出していた。
敷地の中なら、多少荒れていても自分の家の問題で済む。道路側はそうはいかない。人も車も通る。そこだけは、予定していなくても手が出る。
本格的にやるつもりはなかったので、飛び出している分だけを切ることにした。
作業の途中で、蔓になった草が腕に落ちた。露出していた肌に棘が刺さって、かなり痛かった。いつもは長袖だったから、腕に何が当たっているかなど考えたこともなかった。
何という植物だったのか、棘が残ったのかどうかも、私は確かめていない。その場で払って、そのまま続けた。大したことにはならなかったが、書いておくべきだと思うのは、「少しだけだから」と装備を省いたときに限って、予定外の作業が起きるということのほうだ。
外回りの手入れは、行くと決めた日だけに起きるわけではない。墓参りでも、母の様子を見に行った日でも、目に入れば手が出る。ならば、車に長袖と手袋を積んでおくだけで済む話だった。
道路側を先に見るという順番は、見た目のためではない。外へはみ出したものは、こちらの都合とは関係なく人の目に触れる。空き家になった実家を放置すると何が起きるかを調べたときにも、まず外から見える部分が問題になっていた。
一気に済ませようとした日に、刃で指を切った
九月に入って、草刈りと垣根の手入れをしていて、右手の親指を切った。買い増したばかりの、垣根用のハンディタイプの刃である。
終わりのほうだった。一日で片をつけるつもりで動いていて、疲れていた。そこで手元が油断した。
原因はいくつも重なっているが、自分でいちばん引っかかっているのは道具の使い方である。
このハンディタイプには、レバーを握り続けなくても運転が続く機能がついている。片手で構えたまま長く切っていくときは楽だ。私はそれを入れたまま使っていた。
握るのをやめれば止まる、という前提が、そのとき自分の中から消えていた。 楽をするために入れた機能が、止まってほしい場面で止まらない条件になっていた。便利な機能ほど、何をしなくなるのかを分かったうえで使うべきだった。
休みの日だったので、救急の案内へ電話して、近くで診てもらえるところを教えてもらった。帰りに寄って診察を受けた。骨に異常はなく、縫うかどうか迷ったうえで、医療用のテープで留めることになった。
怪我そのものは大したことにならなかった。ただ、ひやりとしたのと、休日に診てもらったぶん、思っていなかった出費になった。
処置のことや道具の正しい使い方について、私が書けることはない。取扱説明書と、製品に付いている注意書きを読むのが先である。
ここで書いておきたいのは、疲れているときに一日で終わらせようとしたこと自体が、この日の条件だったということだ。
八月に棘が刺さったときは、装備を省いたのが原因だった。今回は長袖も手袋もしている。足りなかったのは装備ではなく、その日にどこまでやるかの線だった。
道具を足したぶん、一日でやれることは増えた。増えた分をそのまま一日に詰めていたことには、切るまで気づかなかった。
一度で終わらせようとするのを、やめた
戻っていた草を見てがっかりしたのは、終わらせたつもりでいたからだった。
終わりのある作業だと思っていれば、戻っているのは失敗に見える。終わらないものだと分かっていれば、それはただの経過になる。同じ景色でも、受け取り方が変わる。
母のやり方に合わせるなら回数を増やしたいが、離れた場所から通う私には、そこは真似ができない。回数で追いつけないなら、決めておくべきなのは一日の量ではなく、順番だった。
私は、道路側を先にやっている。敷地の中は後。時間が足りなければ、後ろは残せばいい。全部を同じ日に終わらせようとすると、道路側に手が回らない日ができる。それがいちばん困る。指を切った日に足りなかった線も、この順番があれば引きやすい。
外へ出すことも、選択肢から外してはいない。業者へ頼んだことはある。ただ、定期的に任せる形にはしていない。頼むにしても、どこをどの状態まで頼むのかを決めていないと、金額だけを見ることになる。そのあたりは、業者に頼む前に確認したこととして以前まとめた。
父が植えた果樹も、敷地を囲う木も、母屋も離れも、置いてあるだけでは保たない。実家を維持するというのは、何かを片付け終えることではなく、戻ってくるものと付き合い続けることだった。
一か月で元に戻るのは、私の作業が足りなかったからではない。そういう場所なのだと、ようやく分かった。
次に行ったときも、たぶん戻っている。そこから始めればいい。

