中学時代の同級生とは、今もお盆と正月に顔を合わせている。互いの親の年齢が近く、この数年は親の老いや介護の話が増えた。
そのお盆の集まりで、今回は少し違うことを考えた。会った相手の若さと、自分自身の老け方についてである。
寺で会った同級生の母が、運動だけでは説明できないほど若く見えた
お盆の墓参りに行った寺は、同級生の家が代々営んでいる。何年かぶりに顔を出すと、その母親が出てきて、立ち話になった。
年齢は私の母と同じくらいのはずである。それなのに、まるで別世代のように若々しく見えた。
聞けば、同級生の妻と同じヨガ教室に通っているという。かつて教員をしていたこともあり、人と話すこと、人に会うことに慣れている様子だった。相槌の打ち方も、こちらの近況を聞く聞き方も、久しぶりに会った気がしないくらい滑らかだった。
同じ日に会った同級生は三人いた。年齢を測る手がかりとして、まず運動の有無を当てはめてみたが、うまく当てはまらなかった。一人はジムに通っている。もう一人はジムに通いながら、草野球チームにも入っている。もう一人は根っからの文系でインドア派、飾り気のない落ち着いた雰囲気だが、老けて見えるわけではなかった。運動をしている二人はそれなりに引き締まって見えたが、運動をしていないはずのもう一人まで老けて見えないのだから、運動の有無だけでは説明がつかない。
行きつけの居酒屋の飲み仲間には、もっと幅がある。多いのは60代後半から70代で、たまに同世代もいるが、そこでは私を含めて完全に若造扱いである。その中に88歳が三人いる。一人は今も週に数回働いている。一人は自分で車を運転して、週に一度ゴルフに出かける。もう一人は入院と退院を繰り返し、大病もしているらしいが、それでも生命力は強く、私の目に映るのはただのオシャレな遊び人のお祖父さんである。境遇はそれぞれ違うが、良くも悪くも参考になる人たちだ。
歳を重ねても外へ向かう理由を持っている人と、そうでない人がいる。その差が、少しずつ見た目にも出るのではないかと思うようになった。
自分も、見た目で年齢を測れない側になっていた

会社でも、見た目から自分より年上だと思っていた相手が、聞けばかなり年下だったということが何度かある。そのたびに、自分だけは昔と変わっていないつもりでいたことに気づかされる。
周りから見れば、自分も十分に「いいおっさん」なのだろう。それを認めるところから、今回は考え始めた。
老いの差は、若いころのようにゆっくり均等に進むのではなく、50代のどこかから急に開き始めるように感じる。差が開いてから慌てて追いつこうとしても、体力だけでは埋まらない部分がある気がしている。だからこそ、差の正体が運動だけではないなら、他に何が効いているのかを知っておきたかった。
仕事帰りにまたプールへ通い始めたのも、体を動かす理由をなくさないためだった。ただ、同級生たちを見るかぎり、運動は若さの差の一部しか説明しないらしい。
母が日常的に会う人は、もう数えられるほどしかいない

自分の話をした後で、母のことを考えた。
母が今、日常的に顔を合わせるのは、買い物を頼んでいるヘルパーと、昼の配食を届けてくれる人、それに私くらいになっている。どの人とも、話し込むほどの付き合いではない。
外出は、通院や買い物、たまの散髪を含めても月に二回ほどである。以前はもう少し出ていた気がするが、今はそれくらいに落ち着いている。人に会う予定が、母の暮らしからひとつずつ減っていったのだと思う。
身支度を煩わしく感じているように見える
これは母がそう言ったわけではなく、私から見た印象にとどまる。
髪型や服装へのこだわりが薄れ、身支度そのものを億劫がっているように見える場面が増えた。人に会う予定がなければ、整える理由も減るのかもしれない。
母が近所の人とあまり話さなくなったことは、親に家族以外のつながりがないと、その分は子に来るで書いた。地域の行事に出られていないことへの後ろめたさがあり、人前に出ること自体が重くなっているように見える。身支度の億劫さも、その延長にあるのかもしれない。
こうした小さな変化には、気づいておくことに意味があると思う。孤立の度合いが今より進んだと感じたとき、相談の前に何を整理しておくかは、地域包括支援センターに相談する前に整理しておくことにまとめてある。
身支度を億劫がることそのものを、悪いことだとは思わない。誰に見せる予定もない日に、無理に整える必要はない。気になるのは、その日が積み重なって当たり前になっていくことの方である。
続けている人には、外へ向かう理由が残っている

北陸で暮らす別の同級生の母も、母と同じくらいの年代だが、今も花や植木を育てて元気にしている。正月に挨拶へ寄ると、育てた花を切って持たせてくれる。誰かに分けるつもりで育てているのか、育てたついでに分けているのかは分からないが、人に渡す相手がいることが、続ける理由の一部になっているように見える。
寺で会った同級生の母のヨガも、この北陸の花も、居酒屋の88歳三人の酒席も、運動の効果そのものより、続ける理由や予定が外にあることの方が大きいのではないかと思う。共通しているのは、予定の相手が家族の中だけにいないということでもある。ヨガ教室の仲間、花を待つ相手、酒席の飲み仲間。どれも家の外に置いた予定である。
会社の外の人間関係を少しずつ作ってきたのも、振り返れば同じ発想だった。年を取ってからあわてて増やせるものではないので、今のうちに切らさないようにしている。
老いを比べる前に、外へ向かう予定の数を見ておく
他人を「老けた」「若い」と採点するつもりはない。見た目には、健康状態や体質、暮らしの環境など、外からは分からない事情がいくらでもある。
それでも、若々しく見えた人たちに共通していたのは、外へ向かう予定や、人に会う理由がまだ残っていたということだった。運動をしているかどうかだけでは、説明がつかない差はそこにあった気がする。予定がある日は身支度をし、姿勢も保たれる。予定がない日が積み重なると、その両方が少しずつ緩んでいく。老いというより、その積み重ねの結果を見ているだけなのかもしれない。
母の外へ向かう予定は、今はヘルパーと配食の人、月に二回の外出である。数は少ないが、それが母の暮らしに残っている外との接点だ。
私の側には、盆と正月の同級生、仕事帰りのプール、会社の外の付き合いがある。どれも家の外に置いた予定だ。老いを比べるなら、相手の見た目より先に、自分の予定表に外へ向かう理由がいくつ残っているかを見ておきたい。

