退職後の自分が怖い

退職後の自分が怖い 人生後半

退職後の生活を考えるとき、最初に浮かぶのはお金のことだ。

もちろん大事なことだ。年金、退職金、生活費、親のこと、実家のこと。考えなければならない現実はいくつもある。

ただ最近、自分の中でそれとは別の不安が大きくなっている。

会社を離れたあと、私は自分の一日をちゃんと扱えるのだろうか。

仕事がなくなることより、予定や役割が消えたあとに残る自分が怖い。そんな感覚が、50代後半になって少しずつはっきりしてきた。

仕事がある日は、迷わずに済んでいる

退職後に消える仕事の予定表を見つめる手元

会社員を長く続けていると、毎日の形はある程度決まっている。

朝起きる。会社へ行く。メールを見る。会議に出る。判断する。誰かに伝える。うまくいかないことがあれば調整する。

好きか嫌いかとは別に、やることがある。

仕事には面倒なことも多い。思うように進まない案件もある。人との関係で疲れることもある。それでも、会社に行けば、その日の自分の役割はだいたい決まっている。

これは負担でもあるが、同時に支えでもある。

予定表が埋まっている。誰かから連絡が来る。判断を求められる。返事をしなければならない。そうした一つひとつが、自分を前に進ませている。

退職後は、その枠が外れる。

朝起きても、会社に行かなくていい。会議もない。資料の確認もない。誰かから急ぎの判断を求められることもない。

それは楽なことのはずだ。

けれど、楽になった時間を自分で扱えるかどうかは、また別の問題だと思う。

忙しさに助けられてきた部分が、自分にはかなりある。やることが多いから、迷わずに済んでいる。予定があるから、今日を始められている。

そのことに気づくと、退職後の自由が、少し怖く見えてくる。

自由な時間を、まだ信用できない

自由な時間を持て余すような静かなリビング

若いころは、自由な時間が欲しかった。

仕事に追われず、好きな時間に起きて、好きなことをして過ごす。そんな日々を想像すれば、うらやましく感じた。

今でも、休みの日はありがたい。何も予定がない朝は、ほっとする。

ただ、何日も何週間もその状態が続いたら、自分はどうなるのだろうか。

最初のうちは片づけをするかもしれない。読みたかった本を読むかもしれない。少し遠くへ出かけることもあると思う。

けれど、それが一巡したあとに何をするのか。

そこが、まだうまく想像できない。

私は、時間があれば自然に充実した日々を作れる人間ではない気がしている。放っておけば、ただスマートフォンを見て、動画を眺め、気づけば夕方になっている。そういう自分も、十分に想像できる。

それが悪いという話ではない。休む時間も必要だ。

ただ、毎日がそのまま流れていくとしたら、少しずつ自分の輪郭が薄くなっていくのではないか。

会社の時間は、自分のものではない部分が多い。

それでも、長年その枠の中で生きてきた。予定を入れられ、役割を与えられ、人に合わせて動くことに慣れている。

だから、急に全部が自分の時間になったとき、その自由を持て余すのではないかと思う。

自由な時間は、ただ空いている時間ではない。

自分で意味を入れなければ、すぐに空白になる。その空白を怖いと感じるようになったのは、50代後半になってからだ。

役割がなくなることより、手応えがなくなることが怖い

管理職のまま定年を迎える不安については、以前にも書いた。

肩書きが外れたとき、自分に何が残るのか。後継者に何を渡せるのか。会社の外に持ち出せるものは何か。そういうことを考えるようになっている。

今回考えている怖さは、それと少し違う。

役職が外れることそのものより、毎日の手応えがなくなることが怖い。

会社では、うまくいかないことも含めて、反応がある。誰かが困っている。誰かが相談に来る。方針を決めれば、良くも悪くも物事が動く。

自分の判断が正しかったかどうかは、すぐには分からない。それでも、何かに関わっている感覚はある。

退職後、その手応えは大きく減るのだと思う。

誰かに必要とされたい、と大げさに言いたいわけではない。人から感謝されたいわけでもない。

ただ、自分が今日何かに関わったという感覚は、思っている以上に生活を支えている。

朝から晩まで誰とも話さなくても、一日は終わる。何も決めなくても、誰にも迷惑をかけずに一日を過ごせる。そういう日があること自体は悪くない。

問題は、それがずっと続いたときだ。

自分の言葉が誰にも届かない。自分の判断を使う場面がない。少し面倒な調整をする必要もない。

そうなったとき、私は落ち着いていられるだろうか。

仕事のストレスから離れたい気持ちはある。けれど、仕事の中にあった小さな手応えまで失ったとき、自分がどう感じるかはまだ分からない。

家の中だけで完結する生活になりたくない

退職後の生活を想像すると、家の中で完結してしまう怖さもある。

買い物に行く。家のことをする。テレビを見る。少し散歩する。用事があれば病院や役所に行く。

それだけでも生活は成り立つ。

ただ、会社に行かなくなると、人と会う理由が急に減る。職場の人間関係は仕事があるから続いている部分が大きい。退職すれば、自然に会う人は限られていく。

50歳で転職したとき、会社を離れると人間関係が思った以上に薄れることを知った。

前の職場で長く一緒に働いた人たちとも、場所が変われば会う機会は減る。仲が悪くなったわけではない。ただ、同じ予定表の中にいなくなると、関係は静かに遠くなる。

退職は、それよりさらに大きい。

会社という共通の場所がなくなる。毎日同じ建物に行くこともない。会議室で顔を合わせることもない。

自分から外へ出なければ、人との接点は細っていく。

それが自然なことだとしても、放っておいていいとは思えない。

人づきあいを広げたいというより、家の中だけで一日が閉じる状態を当たり前にしたくない。外の空気に触れる。誰かの言葉を聞く。自分の考えを少し外へ出す。

そうした小さな出入りがないと、考え方まで狭くなっていく気がする。

退職後に急に新しい人間関係を作るのは、簡単ではない。だからこそ、今のうちから会社以外の接点を少しずつ持っておきたいと思う。

親の姿を見ると、自分の先の時間も見えてくる

親の老いを見ていると、自分の退職後も遠い話ではなくなる。

母は実家の離れで一人暮らしをしている。車を手放し、行動範囲は以前より狭くなった。それでも、自分の暮らしを続けようとしている。

妻の父も、一人暮らしの中で外の手を入れながら生活している。

二人を見ていると、年を取るということは、急に何もできなくなることではないのだと分かる。できることを残しながら、できないことを少しずつ外に預けていく。その繰り返しなのだと思う。

同時に、生活の範囲は確実に狭くなっていく。

行ける場所が減る。誰かの手を借りることが増える。人に会う機会が減る。体調や天気に左右されることも多くなる。

それを身近に見ていると、退職後の自分も、ただ自由になるわけではないと感じる。

自由な時間は増えるかもしれない。けれど、体力は今より落ちているかもしれない。親の問題や実家の整理が残っていれば、その対応も続く。

退職後にゆっくり考えればいい、というほど余裕があるとは限らない。

だから、今のうちに小さく試しておきたい。

会社の外で続けられること。人とつながる方法。自分で一日を組み立てる練習。時間をただ消費するのではなく、少しだけ積み上げる感覚。

親の老いは、自分の未来を急かすものではない。ただ、先の時間を現実として見せてくれる。

怖さを消すより、小さな予定を持つ

退職後に向けて小さな予定をノートに書く手元

退職後の自分が怖い。

そう書くと、かなり後ろ向きに見えるかもしれない。

けれど、今の私は悲観しているわけではない。退職後が暗いものだと決めつけているわけでもない。

怖さがあるから、準備しようと思える。

今できることは、大きな計画を立てることではない。退職後の理想の一日をきれいに描くことでもない。

まずは、小さな予定を持つことだと思っている。

平日の夜に文章を書く。英会話を続ける。気になったことを調べる。親や実家のことを記録する。会社以外の場所に、自分の言葉を少しずつ置いていく。

どれも、すぐに生活を変えるほどの力はない。

それでも、自分で決めて、自分で続けていることだ。誰かに指示されたわけではない予定が、自分の中にある。

退職後に必要なのは、いきなり大きな生きがいを見つけることではないのかもしれない。

朝起きたときに、今日やる小さなことが一つある。誰に評価されなくても、少しだけ前に進めるものがある。

そのくらいの予定を、自分で作れるようになっておく。

今のところ、それが私にできる現実的な準備だ。

会社を離れたあとの自分を、まだはっきりとは想像できない。怖さも残っている。

ただ、怖いと感じているうちに動き始めれば、退職後の自分を少しずつ信用できるようになるのではないか。

定時のあとの時間を使って、少しずつ自分の時間を育てていく。

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