実家で母と話していると、話題のほとんどがテレビのニュースになった。
天気、事件、災害。母はそうしたニュースをいつも見ていて、私よりもよく知っている。
ただ、ときどき中身を取り違えていることがある。そのたびに、私が訂正する。母は一人で暮らしていて、見たニュースについて誰かと話すことがない。取り違えたまま、ずっと残っているものもあるのだと思う。
母の話題が変わったことを、寂しいと言って終わらせるのではなく、そこから何が見えるのかを整理しておきたい。
母は、天気と事件と災害のニュースに、私より詳しい
母の家では、テレビが情報の入口になっている。
天気予報は毎日欠かさず見ているようで、雨や台風の予報は私より先に知っている。事件や災害のニュースも、どこで何があったかをよく覚えている。実家へ行くと、その日に見たニュースの話から始まることが多い。
一方で、経済の話にはあまり関心がない。物価や金利のニュースが流れても、母の口から出てくることはほとんどない。お金には縁のない暮らしをしてきたので、自分には関係のない話だと受け止めているようだ。
以前は、話題がもっと散らばっていた。近所の人のことや、仲のいい友達のことを、母のほうから話していた。今は、そうした話がほとんど出てこない。
親戚の話も、向こうから電話があったときくらいだ。母のほうから電話をかけることは、めったにないらしい。母には家族以外のつながりがほとんどないことは前にも書いた。人から入ってくる話が減った分、テレビから入ってくる話が残ったのだと思う。
一人で受け取った情報は、そのまま残る

母がニュースの中身を取り違えるのは、たまにである。それでも、気になっている。
テレビのニュースは、流れていくものだ。聞き逃したところや、分かりにくかったところがあっても、その場で確かめる相手がいない。誰かと話していれば、「それは違うのではないか」と言われて直ることもある。母の場合、そういう機会がほとんどない。
一度受け取った情報は、受け取ったときの形のまま、母の中に残る。私が訂正できるのは、母がたまたま私にその話をしたときだけだ。話さなかったニュースは、取り違えていても、私には分からない。
母が日ごろ顔を合わせるのは、買い物を頼んでいるヘルパーと、昼の配食を届けてくれる人、それに私くらいだ。配食の人とは、挨拶を交わす程度だという。ニュースについて話す相手は、今は私だけなのだと思う。私が聞いて、必要なら違うところを伝える。それが、母の情報を確かめる唯一の機会になっている。
取り違えが増えていくようなら、それは別の意味で気にかけたほうがいい。認知症が心配になったときに何を記録するかを考えたことがあるが、今の母の取り違えは、聞き逃しや思い込みの範囲だと受け止めている。ただ、その判断も、話を聞いている私にしかできない。
以前は、ニュースを私に重ねていた

話題の中身とは別に、もう一つ変わったことがある。
昔の母は、詐欺の事件や、私と同じ年ごろの人が起こした事件のニュースを見ると、私に重ねて話した。お前はそういうことをするなよ、と言ってきたものだ。ニュースは、家族に引き寄せて受け取るものだった。
最近は、それがない。ニュースを見ても、自分や家族のこととして話すことが少なくなった。
天気のニュースだけは、少し違う。荒れた天気の予報を見て、母屋の雨戸を閉めに行ったり、家の周りを見て回ろうとしたりしたことがある。見ても仕方がないからと、私はやめるように言った。母屋の備えは、私が天気の崩れる前に見に行くことにしている。荒れた天気の中を母が一人で歩き回るほうが、よほど危ない。自分の家に関わるニュースには、母の体のほうが先に動くのだと思う。
母には、もともと物事を自分のこととして考えないところがある。いろいろな問題を抱えていても、母は平然と暮らしている。我がことにしないからこそ、そうしていられるのかもしれない。
ただ、それは心配な面にもつながる。詐欺まがいの電話がかかってきたとき、母は私に「どうする」と聞いてきた。聞いてくれたのはよかった。ただ、ニュースで詐欺の手口を見ていても、それを自分に起こることとして結びつけているとは限らない。
義父は、耳からのニュースを、的確につかんでいる
同じ年代の親でも、ニュースとの付き合い方はずいぶん違う。
妻の父は、目がほとんど見えない。ニュースは耳から聞くだけだ。それでも、いろいろなニュースに関心を持っていて、中身を的確に理解している。体は衰えても、物事の受け取り方は昔から変わっていないと感じる。
もちろん、性格の違いは大きい。義父は昔から何にでも関心を持つ人で、母は一度殻に入ると、なかなか出てこない人である。
ただ、もう一つの違いも見えている。義父の周りには、話す相手がいる。妻とその妹たちが入れ替わりで通い、孫たちも顔を出す。義父のほうから、妻や私に電話をかけてくることもある。聞いたニュースを、誰かと話す機会があるのだ。
母には、それがない。性格の違いを埋めることはできないが、話す相手の数は、ニュースの受け取り方にも表れているのだと思う。
ニュースの話は続かない。それでも、話す相手は私しかいない
正直に言えば、母とのニュースの話は、あまり続かない。
母が知っているのは、ニュースの表に出ている部分までだ。そこから先を話そうとしても、話の広げようがない。母はもともと、言葉を尽くして話すほうではない。同じ話題を行ったり来たりして、話はそこで止まる。
取り違えに気づいても、いつも直すわけではない。深く掘り下げたり訂正したりしても、うまく伝わらないことが多いからだ。誰かに迷惑がかかる話でなければ、そのままにしておくこともある。
直すのは、母の行動や周りの人に関わるときだ。雨戸の件のように、ニュースが母を危ないほうへ動かしそうなときは止める。全部を正すより、どこで口を出すかを決めておくほうが、母とのあいだでは続けやすい。
私のほうから話題を持っていくこともある。私の子や孫の話をして、写真を見せると、母は嬉しそうな顔をする。ただ、母のほうから孫はどうしているかと聞いてくることは少ない。かわいいとは思っているのだろうが、情熱的に愛情を注ぐ人ではない。
会話が弾まないことを、母のせいにするつもりはない。人と話す機会が減れば、話すための言葉も、話したいことも減っていく。母の話題がニュースだけになったのは、その結果なのだと思う。電話の話題からも、親の小さな変化は見えてくるが、母の場合は話の行き先が一つに寄ってきた。
続かない会話でも、母にとっては数少ない、誰かと話す時間である。私が聞かなければ、母のニュースは誰にも話されないまま終わる。
サロンには、一人では行かない人だと思う

人と話す場を増やせないか、と考えたことはある。
地域には、高齢者が集まる場がある。厚生労働省は、住民同士が気軽に集い、ふれあいを通して生きがいや仲間をつくる場を「通いの場」と呼んで紹介している。体操や趣味の集まり、茶話会など、中身は地域によってさまざまだ。デイサービスのように、介護保険を使って通う場所もある。
母が、こうした場にまったく興味がないとは思っていない。ただ、社交的ではない母は、自分から進んで参加するものではないと考えているのかもしれない。
若いころの母は、友人の家へ遊びに行っていた時期もあった。人付き合いをしない人ではなかった。仲のいい友達が一緒なら、通いの場にも行っていただろう。ただ、その友達の話は、今はもう出てこない。一人で新しい輪に入っていくのは、母には難しい。
だから、通いの場を無理にすすめるつもりはない。母の介護認定を受け直すことも考えていて、そのときは地域包括支援センターに相談することになる。相談する前に整理しておくことに、近くにどんな集まりがあるのか、一人でも入りやすい場があるのかを一つ加えておこうと思う。
それまでのあいだ、母のニュースを聞くのは私の役目になる。全部を直すことはできないし、直さなくていいものもある。それでも、母が一人で受け取ったニュースを、一度は誰かが聞いておくこと。今の私にできるのは、そこからだと思っている。

