母の通院に付き添うということ

親の老い

母はがんの術後から、定期的な通院が必要だった。実家は公共交通機関がほぼない地域で、免許を返納した母は一人では病院に行けない。私が車で連れて行くしかなかった。転職して間もない時期と重なり、有給もなかった。何度も欠勤した。長いサラリーマン生活の中で、欠勤は初めてのことだった。


退院後も、通院は続いた

退院してしばらくは、母の体力が戻っていなかった。歩くとフラつく状態で、一人での外出はそもそも難しかった。

術後の経過を診るため、外科と消化器の診察が定期的に入る。実家から病院まで車で30分ほどかかるが、公共交通機関は事実上ない。タクシーを使う方法もあるが、金銭的な負担は重い。体力の落ちた母を一人で行かせることには不安もあった。

結局、私が連れて行くのが一番現実的だった。

親が退院したあとの「通院をどうするか」は、実際に直面するまで意外と考えていなかった。入院中は病院がすべて対応してくれるが、退院した瞬間からその役割は家族に渡される。同じような状況を抱えている方は、少なくないのではないだろうか。


半休では、足りなかった

診察はたいてい午前中に入っていた。

問題は、それだけでは終わらないことだ。診察が終わると説明がある。説明が終わると会計がある。会計を済ませて車に戻り、実家まで送り届けると、昼を過ぎていた。そこから職場に向かっても、着くのは午後の遅い時間になる。

半休で済ませたかったが、時間的に無理だった。結局、一日休む必要があった。

転職して間もない時期で、有給がなかった。休めば欠勤になる。これまでの長いサラリーマン生活の中で、欠勤は一度もなかった。仕方ないとは分かっていた。それでも抵抗があった。

知らない人ばかりの新しい職場で、名前も顔もまだ覚えてもらえていない中での欠勤だった。長年いた会社であれば、事情を察してもらえたかもしれない。新天地では、ただ「休んだ人」でしかない。後ろめたさは、仕方ないという気持ちの裏側に、ずっと残っていた。


市民病院の待合室

通院先は市民病院だった。

待合室に座っていると、結構な確率で救急車が到着した。予定よりも待つことになる回が、たびたびあった。

慌てた様子で駆けつける家族。事故で運ばれてくる患者。連絡を受けて、息を切らして走ってくる人。そういった光景を、待ちながら眺めることになった。

どれも他人事とは思えなかった。いつ自分が同じ側に立つか分からない。目を伏せたくなることもあった。

母は誰にも声をかけず、静かに座って待っていた。私もそうだった。二人で黙ったまま、番号が呼ばれるのを待った。

診察室には一緒に入った。医師の説明を、母と並んで聞いた。専門的な内容は私でも理解しきれない部分があったが、隣にいて一緒に聞いているだけで、母の表情は少し違った気がする。


ストマのことは、分からないことだらけだった

術後の外来では、ストマのケアも大きな確認事項だった。

ストマは腹部に造られた開口部で、専用のパウチを貼り付けて使う。接続部が皮膚に直接触れる構造のため、最初のうちは爛れることがあった。どう対処すればいいのか。治るものなのか。それさえ分からない状態が続いた。母本人も戸惑っていたし、私も不安だった。

ストマ用のパウチや周辺用品は、特定の薬局でなければ購入できなかった。病院とは別の場所にあるその薬局にも、車でしか行けない。最初のうちは通院のたびに病院の帰りに寄るようにしていた。母が一人で行ける場所ではなく、今後どうするかという問題は常に頭の隅にあった。

また、ストマに関連した助成を受けるためには、定期的に役場への申請が必要だった。役場は平日の日中しか対応していない。この手続きにも会社を休まなければならなかったが、こちらは申請だけで済んだため、なんとか半休で対応できた。


コロナ禍が重なっていた

この時期はコロナ禍でもあった。

少しでも体調を崩せば、病院に連れて行けなくなる。自分が感染すれば、免疫が落ちている母に近づくこともできない。自分の体調管理が、そのまま母の通院に直結していた。いつも気が張っていて、不安と隣り合わせの日々だった。

通院のたびに欠勤が重なり、ストマの用品を薬局に取りに行き、役場にも足を運ぶ。それらが転職直後の時期に集中した。会社での立場がまだ固まっていない中で、これだけの用事が続いたことは、振り返っても重かったと思う。


この生活が、しばらく続いた

慣れてくると、要領が少しずつつかめてきた。

薬局への購入はまとめ買いで頻度を減らした。役場の申請は手続きに慣れて時間が短くなった。ストマの扱いも、母自身が少しずつ覚えていった。最初のころに比べれば、一回あたりの負担は確実に軽くなっていった。

それでも、通院のたびに仕事を休み、車を出し、待合室で待ち、帰りに薬局に寄る。この生活がしばらく続いた。

帰りの車の中で、母が「ありがとね」と言った。いつも同じ一言だった。私もたいてい「うん」とだけ返した。それが、あのころの私たちの別れ方だった。

仕事をしながら親の通院に付き添った経験のある方は、少なくないのではないかと思う。うまくやれていたかは分からない。ただ、定時のあとの時間をやりくりして、一つひとつ対応していくしかなかった。

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