孫に何かを残したいと思い始めた

孫に何かを残したいと思い始めた 人生後半

孫に何かを残したい。

そう思うようになったのは、最近のことだ。

以前の私は、孫に何を残すかということを、ほとんど考えていなかった。子が独立し、自分の家庭を持ち、孫が生まれた。それはとても大きな出来事だったが、日々の仕事や親のこと、実家のことが重なる中で、遠くにいる孫へ何かを残すという発想までは持てていなかった。

けれど、親の老いを見て、実家の整理を考え、自分の定年が近づいてくると、少しずつ見方が変わってきた。

今回は、孫に何かを残したいと思い始めたことについて、今の私の感覚を整理しておきたい。


残したいものは、お金だけではなかった

ノートと写真で家族の記録を残す準備をしている机

孫に何かを残すというと、最初に思い浮かぶのはお金かもしれない。

もちろん、お金は大事だ。

教育、生活、住まい、将来の選択肢。お金があれば、できることは増える。孫が大きくなるころ、どんな社会になっているかは分からない。今よりも暮らしにくくなっている部分もあるかもしれない。

だから、少しでも助けになるものを残せるなら、それは意味があると思う。

ただ、最近の私は、残すものをお金だけで考えなくなった。

というより、お金だけを考えると、自分の中で話が閉じてしまう。

自分に大きな資産があるわけではない。住宅ローンは終えたが、親の生活支援や実家のことはこれからも続くし、定年後の収入も今より下がる。

そう考えると、孫に十分な財産を残すという話は、現実味が薄い。

だからといって、何も残せないわけではない。

むしろ、お金以外に何を残せるかを考えるようになった。

私が何を考えて生きてきたのか。

どんな仕事をして、何に迷い、何を大切にしようとしたのか。

親の老いにどう向き合い、実家の問題をどう受け止めたのか。

そういう記録は、目に見える財産ではない。けれど、いつか孫が大きくなったとき、遠い祖父の輪郭を知る手がかりにはなるかもしれない。

今の私が残せるものは、そういう形のものなのではないかと思い始めている。

孫との時間は、思っていたほど多くない

離れて暮らす孫とのつながりを思わせるスマートフォンと小さな玩具

孫は遠くにいる。

会える機会は多くない。写真や動画で様子を知ることはあるが、同じ街で日常的に顔を合わせるわけではない。

子育てをしていたころ、私は自分の親と自分の子の距離を、それほど意識していなかった。実家に帰れば親がいて、子がいて、祖父母と孫という関係が自然にそこにあった。

今、自分が祖父の側に立ってみると、その自然さは当たり前ではなかったのだと分かる。

距離がある。

仕事がある。

子には子の生活がある。

こちらにも親の支援や実家の用事がある。

車を走らせれば行けない距離ではない。ただ、気軽に寄れる場所ではないし、頻繁に行き来するような感覚でもない。長い距離を運転して、万一のことでもあれば、後悔しか残らない。

それに、幼い子には、車に限らず乗り物に長く乗ること自体がつらい。ぐずる子に付き合う親の負担も大きく、そう簡単に会いに来てもらえるものでもない。

会いたいと思っても、簡単には会えない。会えたとしても、孫が小さいうちは、その時間の記憶が本人にどれだけ残るかも分からない。

そう考えると、孫と過ごせる時間は、思っていたより限られている。

これは寂しいというより、現実として受け止めることだと思う。

遠くにいる孫に、頻繁に会って何かを教えることはできない。日々の成長に寄り添うこともできない。祖父らしいことをどこまでできるのか、自分でもよく分からない。

だからこそ、会えない時間に何を残すかを考えるようになった。

大げさなものではない。

きれいな教訓でもない。

私が今こうして書いている文章も、その一つなのかもしれない。孫に直接読ませるために書いているわけではないが、人生後半の自分が何を考えていたかは、文章として残る。

会えない時間を埋めることはできない。

ただ、会えない時間にも残るものを、少しずつ置いておくことはできる。

自分が祖父をあまり知らないことに気づいた

孫のことを考えるようになってから、自分の祖父母のことを思い返すことが増えた。

私は、祖父母の人生を詳しく知らない。

どんな仕事をしていたのか。何に悩んでいたのか。若いころ、何を大事にしていたのか。家族をどう見ていたのか。

断片的な記憶はある。

家の中の様子。声の雰囲気。立ち居振る舞い。盆や正月の空気。そういうものは、ぼんやり残っている。

けれど、その人が何を考えて生きていたのかは、ほとんど知らない。

父についても同じ部分がある。

父は大工の棟梁だった。責任感が強く、仕事に対してまっすぐな人だった。今の私から見ると、精神的な落ち着きも、仕事への覚悟も、自分よりずっと大きかったと思う。

ただ、父が自分の言葉で何を考えていたのかを、私は多くは知らない。

父は60歳で亡くなった。今の私から見れば、早すぎる年齢だ。もっと聞いておけばよかったと思うことはある。仕事のこと、家のこと、母のこと、自分の人生のこと。

聞けなかったものは、もう聞けない。

これは、後悔というより、時間とはそういうものだという実感に近い。

だから、自分が孫に対して同じような存在になる可能性もあるのだと思う。

孫から見れば、私は遠くにいる祖父だ。たまに会う人。写真に写っている人。大人たちの会話の中に出てくる人。

そのまま時間が過ぎれば、私の考えていたことはほとんど残らない。

それでもいいのかもしれない。

人の記憶は、全部残すものではない。祖父母のすべてを知る必要もない。

ただ、自分が父のことをもっと知りたかったと思うようになった今、孫に対しても、少しは手がかりを残しておきたいと思うようになった。

残すことと、背負わせることは違う

一方で、気をつけたいこともある。

孫に何かを残したいと思うことと、孫に何かを背負わせることは違う。

私は今、実家の問題に向き合っている。母屋、大工小屋、土地、墓、仏壇、書類。父や母の時間が残っているものばかりだ。簡単に片づければいいとは思えない。

けれど、それをそのまま次の世代に渡したいわけではない。

以前、子に実家整理の重さをそのまま背負わせたくないと書いた。これは今も変わらない。

孫に対しても同じだ。

祖父の思い出だから大事にしてほしい。

この家のことを忘れないでほしい。

墓や仏壇を守ってほしい。

そういう気持ちが、強くあるわけではない。

どこか記憶の片隅にでも残ればいい。だが、残らなくてもいいと思う。いつか、何かの参考になれば、それで十分だ。

その気持ちを、次の世代の義務にするつもりもない。

孫には孫の人生がある。生まれた場所、育つ環境、選ぶ仕事、築く家族。そのどれも、私の実家や私の記憶を中心に回るわけではない。

だから、残すとすれば、重さではなく、手がかりにしたい。

読んでも読まなくてもいい文章。

見ても見なくてもいい写真。

いつか必要になったときに、少しだけ家族の背景が分かる記録。

そのくらいの距離が、私にはちょうどよい気がしている。

孫の人生に、場所を取りすぎない。

それでも、何もなかったことにはしたくない。

その間くらいの、ちょうどいい残し方が、きっとあるのだと思う。

文章は、形を変えた家族の記録になる

ブログとノートで家族の記録を残していく机

ブログを書き始めたころ、私は自分のために書いていた。

親の老い、実家整理、定年後の不安、会社の外に場所を作ること。頭の中だけで考えていると、同じところを回ってしまう。書くことで、少しずつ整理できるようになった。

最初は、孫のために書いている感覚はなかった。

今も、直接の読者として孫を想定しているわけではない。このブログは、同じような年代の人や、親のことで悩み始めた人に向けて書いている。

それでも、結果として家族の記録にもなっている。

母が手術をして、ストマのある生活になったこと。

免許を返納し、一人暮らしを続けるために支援を増やしてきたこと。

父が大工で、実家には母屋や大工小屋が残っていること。

私が50歳で転職し、50代後半になって定年後を考え始めたこと。

会社の肩書きだけではなく、定時後の時間に自分の場所を作ろうとしていること。

一つひとつの記事は、特別な家族史ではない。むしろ、どこの家にもありそうな小さな話の積み重ねだ。

けれど、そういう小さな記録が残っていることには意味がある。

家族の歴史というと、立派な出来事や家系図のようなものを思い浮かべる。だが本当は、もっと日常的なものなのかもしれない。

誰がどんなふうに働いていたか。

親の病気にどう向き合ったか。

実家をどう考えたか。

何を怖がり、何を変えようとしたか。

そういうことは、放っておくと残らない。

だから、書いておく。

自分のために書きながら、結果として、次の世代が家族を知る小さな入口にもなる。

今はそう考えている。

いい祖父になろうとしすぎない

孫のことを考えると、つい「いい祖父」でいたいと思う。

会えば喜んでほしい。何かを買ってあげたい。将来、頼りになる存在でありたい。そんな気持ちは自然に出てくる。

ただ、いい祖父になろうとしすぎると、どこか無理が出る気もしている。

頻繁に会えるわけではないし、若い祖父でもない。

それなのに理想の祖父像を作りすぎると、自分にも家族にも、どこか窮屈になる気がする。

だから、できることを小さく考えるようにしたい。

会えたときに、ちゃんと顔を見る。

子の暮らしに口を出しすぎない。

何かを買うより、負担になるものを残さない。

自分の健康と生活を整えて、できるだけ長く穏やかに関われるようにする。

そして、書けることを書いておく。

そのくらいでいいのだと思う。

孫に何かを残したいという気持ちは、立派なことをしたいというより、自分の時間を少しだけ次につなげたいという感覚に近い。

父や母から受け取ったものを、そのまま重く渡すのではなく、少し整理して、少し軽くして、必要なら見られる形にしておく。

それが、今の私にできる祖父らしさなのかもしれない。

次の世代に、重さではなく手がかりを残す

孫に何かを残したいと思い始めた。

けれど、それは大きな財産を残すという話ではない。家や墓や仏壇を守ってほしいという願いでもない。

私が今考えているのは、手がかりを残すことだ。

家族がどんな時間を通ってきたのか。

親の老いにどう向き合ったのか。

会社員としての時間をどう終えようとしているのか。

実家の問題を、次の世代にそのまま渡さないために何を考えたのか。

そういうことを、少しずつ書き残しておく。

孫がいつか読むかどうかは分からないし、読まなくてもいい。

それでも、何かのときに、遠くにいた祖父はこんなことを考えていたのか、と思える入口があれば、それで十分だと思う。

受け取るかどうかは、孫にまかせればいい。

今のところ、これが私なりの孫への残し方だ。

定時のあとの時間を使って、少しずつ書き残していく。

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