離れて暮らす母に電話をすると、たいてい「大丈夫」と返ってくる。
体調も大丈夫。ご飯も食べている。困っていることはない。
その一言を聞くと、私はどこか安心する。けれど最近は、すぐには安心しきれなくなった。
母が嘘をついているとは思わない。ただ、「大丈夫」という言葉には、いくつもの意味が混じっている。本当に問題ないときも、心配をかけたくないときも、同じ「大丈夫」になる。
では、その「大丈夫」をどこまで信じればいいのか。全部を疑えば、母の暮らしを管理することになる。全部を信じれば、見落とす。今回は、そのあいだのことを、自分なりに整理しておきたい。
「大丈夫」を、私はずっとそのまま受け取っていた
母は、強い人というわけではない。むしろ、はっきりした理由もないのに「大丈夫」と言ってしまうところがある。
父が生きていた頃から、自分の体のことや家のことを、こちらに言葉で伝えるのが得意ではなかった。困っていても、何かを聞かれると「大丈夫」「平気」で済ませてしまう。人見知りで、人と話すこと自体が、もともとあまり得意ではない人なのだと思う。
だから、弱音を吐かない強い母、というのとは少し違う。自分の状態をうまく言葉にできない母、という方が近い。
それでも私は、長いあいだその「大丈夫」をそのまま受け取っていた。母が大丈夫と言うなら大丈夫なのだろう、と。
その前提が揺らいだのは、母が一人暮らしになり、私が週に一度ほど通うようになってからだ。
電話では「大丈夫」と言っていたことが、実際に行ってみると、そうでもないことがあった。食べたと言っていた配食の容器が、手つかずで残っていたこともある。買い物は足りていると言っていたのに、冷蔵庫の中が寂しかったこともある。気づくのが遅れた分、あとから慌てて手を打つことになり、かえって大変になったこともあった。
母は私に嘘をついたわけではない。
おそらく、深く考えて言っているわけでもない。聞かれたから、とっさに「大丈夫」と答えてしまう。だから、本人に嘘をついている自覚もない。
「大丈夫」と「実際の暮らし」のあいだに、少しずつずれが出てきた。それに気づいてから、私は母の言葉を、前ほど素直には受け取れなくなった。
母の「大丈夫」には、いくつかの意味がある

しばらく母を見ていて、「大丈夫」にはいくつか種類があることが分かってきた。
一つは、本当に問題のない「大丈夫」だ。これは信じていい。母にも、まだ自分でしっかりできることはたくさんある。
二つ目は、心配をかけたくない「大丈夫」だ。子に負担をかけまいとして言う。私が週に一度通うことに、母はずっと申し訳なさを感じていた。だから、本当は少し困っていても、「大丈夫」と言ってしまう。
三つ目は、自分でも気づいていない「大丈夫」だ。年を重ねると、できなくなったことに本人が気づきにくくなる。前と同じようにやっているつもりでも、実際には少しずつ難しくなっている。これは嘘ではなく、自覚の遅れだ。
四つ目は、まだ自分でできると思いたい「大丈夫」だ。人に頼ること、できないと認めることへの抵抗。これは母の世代に限らず、誰の中にもあるものだと思う。
同じ「大丈夫」でも、中身がこれだけ違う。
困るのは、言葉だけでは、このどれなのか見分けられないことだ。電話の向こうの「大丈夫」は、どれも同じ声で返ってくる。
だから、言葉そのものより、その「大丈夫」がどの場面で出てきたかを見るようになった。お金や体や安全の話で出る「大丈夫」と、好みや過ごし方の話で出る「大丈夫」とでは、受け取り方を変えたほうがいい。
「大丈夫?」と聞くと、「大丈夫」しか返ってこない

もう一つ気づいたことがある。
私の聞き方が、「大丈夫」という答えを引き出していた。
「体調、大丈夫?」と聞けば、「大丈夫」と返る。「ちゃんと食べてる?」と聞けば、「食べてる」と返る。はい・いいえで答えられる聞き方は、たいてい「大丈夫」のほうに転がる。
母にしてみれば、わざわざ「大丈夫じゃない」とは言いにくい。心配をかけるし、話も長くなる。もともと自分のことを言葉にするのが得意でない母なら、なおさらだ。だから、聞かれたほうに合わせて「大丈夫」と答えてしまう。
そこで、聞き方を少しずつ変えてみた。
「大丈夫?」ではなく、具体的なことを聞く。
今日の昼は何を食べたか。最近よく行く場所はどこか。瓶のふたは開きにくくないか。夜、トイレで何回くらい起きるか。薬は朝の分、もう飲んだか。
「大丈夫?」という問いには「大丈夫」としか返せないが、具体的なことを聞くと、暮らしの様子が言葉になって出てくる。
何を食べたかを聞けば、食事の偏りが見える。よく行く場所を聞けば、外に出られているかが分かる。返事に詰まれば、そこに何か引っかかりがある。
実際、あるとき何気なく「瓶のふたは開く?」と聞いたら、母は少し間を置いて、「最近は固いと開けにくい」と言った。体は大丈夫かと聞いていた頃には、一度も出てこなかった話だ。握る力が落ちてきたことを、母は自分からは言わない。けれど、台所の小さな一場面を聞いただけで、ぽろりと出てきた。
夕食のことを聞いたときも同じだった。昼は配食が届くが、夜は自分で用意している。何を食べたかを尋ねると、同じような簡単なものが続いていた。「面倒だから」と母は笑っていたが、それは食事が少しずつ細くなりかけているサインでもあった。「ちゃんと食べてる?」と聞いていたら、たぶん「食べてる」で終わっていた。
問い詰めるのとは違う。世間話のように、具体的なことを一つ二つ混ぜるだけだ。それだけで、「大丈夫」の一言では分からなかったことが見えてくる。
聞き方を変えてから、母の「大丈夫」を、前より正しく受け取れるようになった気がする。
私自身も、家族に「大丈夫」と言っている
ここまで母の「大丈夫」を疑うように書いてきて、ふと思った。
私自身も、同じことを言っている。
体調が良くない日でも、妻に聞かれれば「大丈夫」と答える。仕事で疲れていても、子から連絡が来れば「こっちは問題ない」と返す。心配をかけたくないし、わざわざ説明するほどでもないと思ってしまう。
母の「大丈夫」と、私の「大丈夫」は、たぶん同じものだ。
そう気づいてから、母の言葉への向き合い方が少し変わった。
母は、できないことを隠そうとしているわけではない。私が家族に対してそうするのと同じように、心配をかけたくないだけなのだ。だとしたら、その「大丈夫」を頭から疑うのは、母に失礼な気もする。
人は誰でも、自分のことは自分で何とかしたいと思う。年を取ったからといって、その気持ちがなくなるわけではない。むしろ、できることが減っていくほど、「大丈夫」と言いたくなるのかもしれない。
だから、母の「大丈夫」を、できなさの証拠として扱いたくない。それは尊厳の言葉でもある。その言葉を尊重しながら、本当に支えが必要なところだけを見つけたい。
疑うことと、信じることは、二つに一つではない。母の気持ちは信じたうえで、暮らしの事実だけは確かめる。今はそういう向き合い方をしている。
信じていい「大丈夫」と、確かめる「大丈夫」を分ける

では、どこまで信じて、どこから確かめるのか。
私は、母の「大丈夫」を二つに分けて考えるようにした。
一つは、信じていい「大丈夫」だ。
好きなものを食べたいとか、自分のペースで過ごしたいとか、この部屋の物の置き方はこのままがいいとか。本人の好みや気持ちにかかわることは、本人の「大丈夫」を信じる。ここに口を出すと、暮らしを取り上げることになる。母が「これでいい」と言うなら、それでいい。
もう一つは、確かめる「大丈夫」だ。
体のこと、お金のこと、火の元や転倒など安全にかかわること。ここで「大丈夫」と言われても、言葉だけでは決めない。事実を確かめる。
なぜなら、この三つは、あとで取り返しがつきにくいからだ。好みは間違えてもやり直せるが、健康や安全やお金は、こじれてからでは遅い。
実際、母は以前、一人で不自由を抱え込んでいた時期があった。私がそれを知ったのは、だいぶあとになってからだった。母なりに「大丈夫」と思って我慢していたのだが、確かめるのが遅れた分、母が一人でつらい思いをする時間が長くなってしまった。
あのときの「大丈夫」は、信じてはいけない種類のものだった。
この線引きをしてから、肩の力が抜けた。すべてを疑う必要はない。確かめるべきところだけを、確かめればいい。好みの「大丈夫」まで疑い始めると、母も窮屈だし、こちらも疲れてしまう。
信じる「大丈夫」と、確かめる「大丈夫」。この二つを分けるだけで、どこに目を向ければいいかが、ずいぶんはっきりした。
それでも、問い詰めない
確かめると言っても、問い詰めることではない。
「大丈夫って言ったのに、できてないじゃないか」
そう責めれば、母は次から、もっと言わなくなる。隠すようになる。それでは、確かめるどころか、本当のことが余計に見えなくなる。
だから、確かめ方には気をつけている。
責めずに、事実だけを見る。行ったときに、食事の様子や、薬の減り方や、家の中の段差や、暑さ寒さへの備えを、それとなく確かめる。気になることがあっても、その場で問い詰めず、まずは自分の中に留めておく。
そして、同じことが何度か続いたときに、初めて「ここは少し手伝ってもらおうか」と切り出す。一度の「大丈夫」のずれで動くのではなく、繰り返しを見てから動く。
母を子ども扱いしたいわけではない。母の「大丈夫」を立てながら、その裏にある困りごとを、静かに拾いたいだけだ。
確かめることと、信じないことは違う。母の気持ちは信じる。けれど、安全や健康の事実は、自分の目でも確かめる。その両方を、できるだけ穏やかにやりたいと思っている。
どこまで信じるか、の今の答え
親の「大丈夫」をどこまで信じるか。
今の私なりの答えは、こうだ。
気持ちの「大丈夫」は信じる。体と安全とお金の「大丈夫」は、言葉だけで決めずに確かめる。そして、確かめるときは問い詰めず、繰り返しを見てから動く。
母の「大丈夫」は、できないことを隠す言葉ではなく、心配をかけたくない言葉なのだと思う。私も家族に同じことを言うのだから、それを頭から疑うのは違う。
ただ、その気持ちごと受け取って何もしなければ、母が一人で抱え込む時間が長くなる。だから、言葉は尊重しながら、暮らしの事実だけは見ておく。
完璧に見分ける方法はない。これからも、信じすぎたり、確かめすぎたりを繰り返すのだと思う。それでも、すべてを疑うのでも、すべてを鵜呑みにするのでもない、あいだのところを探していきたい。
派手なことではないが、母の「大丈夫」を一つずつ確かめ、信じられるところは信じていく。定時のあとの時間を使って、少しずつ続けていく。


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