孫を抱っこできる体でいたい

孫を抱っこできる体でいたい 人生後半

孫を抱っこしていると、自分の体の年齢を思い知らされる。

抱っこをせがまれるのは、もちろんうれしい。小さな手をこちらに伸ばしてくる姿を見ると、多少腰が重くても、つい持ち上げてしまう。

ただ、50代後半の体は正直だ。

少し長く抱いていると腰に来る。腕が張る。肩に力が入る。下ろしたあとで、思っていた以上に息が上がっていることに気づく。

私は、若い祖父ではない。

仕事、親の支援、実家の草刈り、出張、健康診断の数字。そうしたものの一つひとつが、自分の体はもう無理を前提にできないと教えてくる。

孫に何かを残したいという気持ちは以前も書いた。今回は少し角度を変えて、孫と関わり続けるために、自分の体をどう整えておきたいかを書いておきたい。


抱っこは、うれしさと体力の確認になる

抱っこをきっかけに腰や肩の負担を意識する居間のソファ

孫を抱っこする時間は、短い。

遠くに住んでいるため、日常的に会えるわけではない。会える日は限られている。その限られた時間の中で、孫がこちらへ来てくれると、できるだけ応えたいと思う。

抱っこして、目線が近くなる。

少し笑う。

こちらの顔をじっと見る。

そういう時間は、理屈抜きにうれしい。

一方で、体はすぐに現実を知らせてくる。

昔なら、子どもを抱いて歩くことにここまで身構えなかった。子育てのころは、それが日常だった。抱き上げ、買い物をし、階段を上り、車に乗せる。大変ではあったが、体がついてきていた。

今は違う。

抱き上げる前に腰を少し意識する。肩の角度を気にする。長く抱いたあと、右腕と腰に張りが残る。

五十肩もある。右と左に交互に来るような感じで、腕を上げる動作がつらい時期がある。出張の飛行機で荷物を棚に上げるだけでも、以前とは違う負担を感じるようになった。

孫を抱くことは、体力測定のようなものでもある。

うれしい時間だからこそ、自分の体が今どこにいるのかをごまかせない。

「まだ大丈夫」と思いたい。

だが、母の「大丈夫」をそのまま受け取らないようになった私が、自分の「大丈夫」だけを無条件に信じるわけにはいかない。

親を支える側も、体を使っている

親を支えるために実家の外回りと買い物を整える玄関先

50代後半になると、自分の体を使う場面が思ったより多い。

会社では机に向かっている時間が長い。管理職として資料を読み、会議をし、判断をする。体を使う仕事ではないように見える。

けれど、生活全体で見ればそうでもない。

実家へ行く。

買い物をする。

母の荷物を運ぶ。

ストマ用品や日用品を確認する。

草刈りをする。

垣根を切る。

母屋や離れの様子を見る。

一つひとつは大げさな作業ではない。だが、積み重なると体に残る。

特に実家の草刈りは、年々こたえるようになった。昔は人力の道具でも何とかできたことが、今は翌日に残る。腰、手、肩、足。使った場所が分かりやすく痛む。

それでも、母が一人暮らしを続けるには、家の外回りも見ておかなければならない。道路側の草や垣根は、近所への配慮にも関わる。母の暮らしだけでなく、実家という場所を保つための作業でもある。

親を支えるというと、通院、介護サービス、年金、保険、相続のような手続きが先に浮かぶ。

しかし実際には、体を使う支援も多い。

車で行くこと。

荷物を運ぶこと。

家の中外を歩き回ること。

少し高い所のものを取ること。

重いものを動かすこと。

これらは、若いころなら気にしなかった作業だ。だが今は、やり方を間違えると翌日の仕事にも響く。

親を支える側が倒れたら、支援の形は一気に崩れる。

そう考えると、体を整えることは自分のためだけではない。母のためでもあり、妻のためでもあり、孫と会う時間を続けるためでもある。

体力は、気合いでは戻らない

仕事帰りのプール習慣を続けるためのロッカー室の準備

若いころの私は、体力を気合いで考えていたところがある。

忙しくても何とかする。

少し疲れていても動けば動ける。

寝れば戻る。

そういう感覚で長く会社員を続けてきた。

今は、そうはいかない。

睡眠を削ると、翌日に出る。

酒を飲みすぎると、翌日に残る。

長時間座っていると、腰が固まる。

草刈りをすれば、翌朝の体が重い。

健康診断では、高血圧やHbA1cの数字が気になる。主治医から体重を落とすよう言われている。毎朝晩に血圧を測ることも、すっかり生活の一部になった。

ここで無理をしても、若いころの体に戻るわけではない。

体力は、気合いで戻るものではなく、暮らしの中で少しずつ作り直すものなのだと思う。

最近、仕事帰りにプールへ通い始めたのも、その一つだ。

転職前は自転車通勤もしていたし、週に何度か泳いでいた。車通勤になってから、運動する時間は静かに消えた。最初は楽になったと思ったが、体はきちんと鈍っていった。

プールへ行けば、すぐに体が変わるわけではない。

一回泳いだから体重が落ちるわけでもない。

昔のように泳げるわけでもない。

それでも、水の中で体を動かすと、自分の衰えを責めずに済む。走るより膝や腰への負担が少ない。息が上がれば休めばいい。公共プールの静かなペースも、今の自分には合っている。

孫を抱っこできる体でいたい。

そう考えると、運動も少し現実味を帯びる。

腹を引っ込めたいとか、若く見られたいとかだけでは続かない。けれど、孫を抱く腕と腰を守るためなら、少し続ける理由になる。

いい祖父でいる前に、迷惑を増やさない

孫に会うと、いい祖父でいたいと思う。

何かを買ってあげたい。

遊んであげたい。

抱っこしてほしいと言われたら、応えたい。

将来、頼りになる存在でいたい。

そういう気持ちはある。

だが、最近は少し違うことも考える。

いい祖父でいる前に、家族の負担を増やさないことも大事ではないか。

私が体を壊せば、妻に負担がかかる。子にも心配をかける。母の支援にも影響する。孫に何かを残したいと言いながら、自分の不摂生で次の世代に負担を渡すのでは、順番が違う。

もちろん、すべての病気やけがを防げるわけではない。

年を取れば、避けられない変化もある。肩も腰も、目も、血圧も、思い通りにはならない。

それでも、今から整えられることはある。

飲みすぎない。

体重を少しずつ落とす。

プールへ通う。

草刈りで無理をしすぎない。

出張の予定に余白を入れる。

健診や内視鏡検査を先送りしない。

小さなことばかりだが、こういう積み重ねが、将来の負担を少し減らすのだと思う。

私は、孫に立派なものを残せる祖父ではない。

大きな財産もない。頻繁に会えるわけでもない。人生の教訓を語れるほど器用でもない。

だからこそ、せめて自分の生活を整えておきたい。

子や孫が、私の老後に振り回されすぎないようにする。これは、派手ではないが、次の世代への大事な残し方の一つだと思っている。

体を整えることは、時間を残すことでもある

孫を抱っこできる体でいたい。

そう書くと、少し単純に見える。

だが、私にとってはかなり現実的な目標だ。

何歳まで働くか。

定年後に何をするか。

実家をどう整理するか。

親の介護をどう続けるか。

そうした大きな問いの前に、まず自分の体が動かなければならない。

孫と会う日、疲れて何もできない祖父ではいたくない。

実家へ行く日、腰が痛くて動けない状態も避けたい。

妻と出かける日、体調を理由に楽しめないことばかりにもしたくない。

体を整えることは、時間を残すことでもある。

残された時間を長くするというより、使える時間を少しでも良い状態で残すことだ。

若いころの体に戻る必要はない。

重いものを軽々持てる祖父になる必要もない。

ただ、抱っこをせがまれたときに、無理なく抱き上げられるくらいの体でいたい。少し歩き、少し遊び、帰ったあとに穏やかに疲れるくらいでいたい。

そのためには、日々の小さな調整がいる。

食べ方、飲み方、運動、睡眠、検査、休み方。

どれも目立たない。すぐ結果も出ない。だが、人生後半の準備は、たぶんこういう目立たないものの積み重ねなのだと思う。

孫に何かを残すことを考えるなら、自分の体も残す対象に入れておきたい。

まだ抱っこできる。

まだ歩ける。

まだ会いに行ける。

その状態を、少しでも長く保つ。

答えは出ていないが、今の私にはそれがかなり大切な準備に見えている。

定時のあとの時間を使って、少しずつ続けている。

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