母にヘルパーを頼むまで、振り返ると5年ほどかかった。
母は自分から希望をうまく伝えるのが苦手で、よく考える前に「大丈夫」と答えることがある。私はその言葉を聞くと、まだ家族だけで何とかできると思っていた。
買い物や通院は私が行けばいい。要介護度の数字を見て、頼める支援も多くないだろう。そんな決めつけもあった。
今、母がヘルパーに頼んでいるのは買い物の支援だけだ。ストマのことや家事全般をお願いしているわけではない。それでも、母の一人暮らしと私の仕事を両方続けるうえで、この一つが大きかった。
今回は、頼むまでに時間がかかった理由と、役場へ電話してから支援が始まるまでを書いておきたい。
家族だけで回せると思っていた
母が退院して実家の離れに戻ったとき、まず考えたのは生活の土台を整えることだった。
ストマ用品の置き場を決める。緊急連絡先を電話の横に貼る。シニア向けのスマートフォンに替える。暖房を石油ファンヒーターから電気式に替える。昼食には配食サービスを利用する。
買い物や通院、役所や薬局の用事は私が担った。電話で様子を聞き、必要なら会社から定時後に実家へ向かった。
一つずつ整えれば、一人暮らしは続けられる。その考え自体は間違っていなかったと思う。
ただし、仕組みの中心にはいつも私がいた。
母も、人に何かを頼むのが得意ではない。知らない人が家に入ることには抵抗があるだろう。本人がまだできると言っているのに、こちらから外の支援を勧めるのは早いとも考えた。
一方、義父は早い時期からヘルパーを頼んでいた。訪問の日が、暮らしを支えるだけでなく人と話す機会にもなっていた。義父から聞いたことは、以前の「親が元気なうちにヘルパーを頼んだ理由」に書いている。
その姿を見ても、私は母のことになると「まだ私が行ける」と考えていた。
母の「大丈夫」と人見知りを同じものにしていた
母は、体調や暮らしについて聞くと、反射的に「大丈夫」と答えることがある。
心配をかけまいと我慢する強さから出る言葉、というより、自分の希望をその場で整理して伝えるのが苦手なのだと思う。あとから聞き直すと、最初の返事とは違う困りごとが出てくる。
私は長い間、「大丈夫」と「人に来てほしくない」を同じものとして受け取っていた。
けれど、母が知らない人を警戒することと、生活に支援が要らないことは別だった。人見知りだからこそ、いきなり利用を決めるのではなく、顔を合わせて話せる相談の段階が必要だったのだと思う。
母の「大丈夫」をどう聞くかは、「一人暮らしの親の『大丈夫』をどこまで信じるか」でも整理した。
今は、一度の返事だけで決めないようにしている。「買い物には行けたか」「重い物はどうしたか」のように、暮らしの場面に分けて聞く。そのほうが、母も答えやすい。
困りごとを相談できる形にしていなかった

支援を頼むまで時間がかかったもう一つの理由は、困りごとを整理していなかったことだ。
「何となく心配」では、母にも相談先にも伝えにくい。そこで、母にとって難しくなったこと、家族が続けにくいこと、今まで通りできることを分けて考えた。
| 止まっていた理由 | 当時の考え | 今ならこう見直す |
|---|---|---|
| 母が「大丈夫」と言う | 本人が嫌ならまだ早い | 一度の返事ではなく、具体的な場面を聞く |
| 私が実家へ行ける | 家族で回せている | 一人の予定に頼る仕組みは、急な仕事に弱い |
| 要介護度の数字が低い | 頼めることは少ない | 数字だけで決めず、暮らしの状況を相談する |
| 人に頼むほどではない | もっと困ってから考える | 困りごとが小さいうちに相談先だけ確認する |
介護サービスは、本人の心身の状態や生活環境などを踏まえてケアプランが作られ、その内容に沿って提供される。家族が希望する家事を自由に選ぶ仕組みではない。厚生労働省の介護サービス情報公表システムにも、相談・ケアプラン作成や、自宅で受ける家事援助などのサービスが案内されている。
使える支援や相談先は地域や状況によっても違う。最初からこちらで答えを決めるより、「今は何に困っているか」を伝えるほうが先だった。
「私が行けばいい」は一人の予定に依存する
実家までは、会社から定時後に向かうと1時間ちょっとかかる。自宅からでも、混み具合によって45分から1時間以上かかる。
母のために動くことが嫌だったわけではない。週に一度くらいなら何とかなると思い、実際に何とかしてきた。
ただ、仕事の予定や出張が重なると、決めた日に行けないことがある。自分の体調が悪い日もある。
私が行けることを前提にすると、私が動けない日に母の暮らしも不安定になる。
家族が支えることと、家族だけで支えることは違う。この区別がつくまでに時間がかかった。
外の手を入れることは、私が母から離れるためではない。これからも関わり続けるために、一人へ集中していた役割を少し分けることだった。
きっかけは困りごとが重なったこと
考え方が変わるきっかけになったのは、母が冬に右手をやけどしたことだった。
ガス台の火がカーディガンの袖に燃え移った。利き手のやけどは、その後の買い物や家のことにも影響した。母はすぐには私へ言わず、隠そうとしていた。
この出来事が義父にも伝わり、ヘルパーを頼んだらどうかと勧められた。
やけどの経緯や、支援を増やす目安については「介護サービスを増やすタイミング」に分けて書いた。この記事で大事なのは、事故が一つ起きたから急に決めたのではない、ということだ。
買い物の負担、私の毎週の移動、人へ頼ることへの母の抵抗。それまで別々に見ていた困りごとが、やけどをきっかけにつながった。
「まだ何とかなる」ではなく、「このまま同じ方法を続けられるか」を考えるようになった。
役場へ電話してから買い物支援が始まるまで

まず私が制度や相談先を調べ、母の住む地域の役場へ電話した。そこで、地域の具体的な相談先を教えてもらった。
教わった窓口へ連絡すると、担当の方が母の家を訪ねてくれることになった。その日は仕事があり、私は同席できなかった。母は一人で会うことになったが、実際に顔を合わせて話したことで、少し安心できたようだった。
その後、利用する支援について説明を受け、母と相談した。
母は、私が毎週通っていることを申し訳なく感じていた。その負担が少し減るなら、という思いもあり、話は私が心配していたより穏やかに進んだ。
始めたのは、買い物の支援だけである。
掃除や洗濯、ストマの管理までまとめて頼んだわけではない。母ができることは残し、当時いちばん困っていたところだけをお願いした。
支援する側からは、負担が大きくなればいつでも言ってください、と声をかけてもらっている。今後、母の状態が変われば、その時点で相談し直せばいい。
5年は失敗ではないが、相談は早くてよかった
母にヘルパーを頼むまで5年かかったことを、失敗だけだとは思っていない。
母が実家の離れでの暮らしに慣れ、配食サービスが定着するまでには時間が必要だった。私も、母との距離や、外の支援を入れる意味を少しずつ理解した。
ただし、利用を決めることと、相談することを一緒にしていたのは遠回りだった。
相談したからといって、すぐに何かを頼まなければならないわけではない。どこへ連絡すればよいか、今の暮らしで何が課題かを早めに確かめるだけでも違う。
母に必要だったのは、暮らしを全部任せることではなかった。買い物という一部分に外の手が入ったことで、母はできることを続けられ、私も仕事との間に少し余白を持てた。
家族が手を離すためではない。家族が長く関わるために、役割を分ける。
5年かけて、ようやくその順番が分かった。
これからも、定時のあとの時間を使って、母の暮らしと自分の暮らしを少しずつ整えていく。

